聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【4】
5. 十七条憲法の謎|「和を以て貴しと為す」は何を意味していたのか
604年、十七条憲法が制定されたと『日本書紀』は記しています。
十七条憲法は、聖徳太子に関係するものとして、特によく知られているものの一つです。
その第一条には、有名な言葉が記されています。
「和を以て貴しと為す」
この言葉は、現在でも人々が協力し、調和を大切にすることを表す言葉として知られています。
しかし、7世紀初めの政治的な状況の中で、この言葉はどのような意味を持っていたのでしょうか。
十七条憲法の第一条は、単に人々が仲良くすることを求めているわけではありません。
人にはそれぞれ異なる考えや立場があり、対立することもある。
しかし、上に立つ者と下にいる者が協力し、物事について十分に話し合えば、道理にかなった判断へ近づくことができる。
そのような考え方が示されています。
つまり、ここでいう「和」は、単に対立を避けることだけではなく、政治に関わる人々が協議し、物事を進める姿勢とも関係しているのです。
ただし、十七条憲法は、現代の民主主義や平等の思想を示した文書ではありません。
第三条には、君主の命令に従うことを求める内容も記されています。
また、官人としての職務や礼儀、政治における公正さなども説かれています。
そのため、十七条憲法は、現在の憲法のように国家の基本的な統治制度や国民の権利を定めた法律とは性格が異なります。
むしろ、王権に仕える人々が、どのような考え方や態度で政治を行うべきかを示した規範として理解することができます。
では、なぜこのような規範が必要だったのでしょうか。
それまでの王権では、有力豪族たちが大きな政治的な力を持っていました。
豪族同士の利害が一致することもあれば、対立することもあったでしょう。
実際、6世紀末には王位継承や仏教の受容をめぐって、蘇我氏と物部氏が武力衝突を起こしたと記録されています。
そうした経験を経た王権にとって、政治に関わる人々が協力し、一定の秩序に従って行動することは、重要な問題だった可能性があります。
しかし、十七条憲法が制定されたとされる604年に、実際に現在伝わる十七条すべての文章が成立していたのかについては、研究上の議論があります。
文章の中に見られる思想や用語が、7世紀初めの状況とどのように対応するのか。
後の時代の政治思想が反映されている部分はないのか。
こうした点についても検討が続いています。
そのため、現在伝わる十七条憲法を、そのまま604年に厩戸皇子が書いた文書だと断定することはできません。
一方で、だからといって、その内容すべてが後世に創作されたものだと決まったわけでもありません。
7世紀初めの王権で形成されつつあった政治思想が、後の時代に整理され、現在の形で伝えられた可能性も考えられます。
ここでも、記録に残されていることと、その成立過程をどこまで明らかにできるのかを区別する必要があります。
6. 十七条憲法が求めたもの|豪族たちは何を変える必要があったのか
十七条憲法には、第一条の「和」以外にも、興味深い内容が記されています。
第二条では、仏・法・僧の三宝を敬うことが求められています。
これは、仏教の価値観が政治的な規範の中に位置づけられていることを示しています。
一方、第三条では君主の命令に従うことが説かれています。
第五条では、訴えを公平に扱い、私的な利益によって判断を曲げないことが求められています。
第十条では、自分の考えだけが正しいとは限らず、他人の意見にも耳を傾けることの重要性が示されています。
さらに、第十七条では、重要なことを一人だけで決めず、他の人々と議論するように説かれています。
これらを読むと、十七条憲法が単なる宗教的な教えではなかったことが分かります。
政治を行う人々の態度や、判断のあり方について、さまざまな考え方が示されているのです。
ここで注目したいのは、判断を一人で行うことへの慎重な姿勢です。
古代の王権では、豪族たちがそれぞれ異なる立場を持っていました。
そのため、政治的な判断を行う際には、複数の有力者たちとの関係を調整する必要があった可能性があります。
一方で、王権の命令が実際に守られなければ、政治的な秩序を維持することは難しくなります。
十七条憲法には、君主の権威を重視する考え方と、人々が協議することを重視する考え方が、同時に存在しているように見えます。
では、これは矛盾しているのでしょうか。
必ずしもそうとは限りません。
政治的な秩序を維持するためには、一定の権威が必要だと考えられていた一方で、実際の判断には複数の人々の意見が必要だと考えられていた可能性があります。
ただし、そこに記された理想が、当時の政治でどこまで実現していたのかは、別の問題です。
政治的な規範が記録されているからといって、当時の人々がすべてその内容に従っていたとは限りません。
むしろ、理想として示されているということは、現実にはそうした行動が十分に実現できていなかった可能性も考えられます。
豪族同士が対立することがあったからこそ、協力が求められたのかもしれません。
私的な利益によって判断が曲げられることがあったからこそ、公平さが説かれたのかもしれません。
重要な問題が一部の人物だけで決められることがあったからこそ、協議の必要性が強調された可能性もあります。
十七条憲法は、当時の政治がすでに理想的な状態にあったことを示す文書ではなく、どのような政治を目指そうとしていたのかを考えるための資料として読むこともできるのです。
7. 冠位十二階と十七条憲法は、何を変えようとしていたのか
冠位十二階と十七条憲法は、異なる性格を持つものです。
冠位十二階は、政治に関わる人々の地位を表す制度として伝えられています。
一方、十七条憲法は、政治に関わる人々の行動や考え方を示す規範として伝えられています。
それぞれ役割は異なりますが、共通する方向性を読み取ることもできます。
それは、王権に関わる人々の関係を、一定の仕組みや考え方によって整えようとする動きです。
ただし、この二つの制度が、最初から一つの計画として構想されていたと断定することはできません。
また、その内容を厩戸皇子一人の政治思想として説明することにも注意が必要です。
それでも、7世紀初めにこのような制度や規範が必要とされた背景を考えることには意味があります。
5世紀後半の稲荷山古墳の鉄剣には、ヲワケ臣が祖先の代から大王に仕えてきたことが記されていました。
そこでは、一族の歴史と王権との関係が、自らの地位を示す重要な要素になっていました。
一方、冠位十二階では、個人に冠位を与えるという新しい方法が採用されたと考えられています。
もちろん、5世紀の氏族的な関係が、7世紀に完全になくなったわけではありません。
しかし、王権に仕える人々の立場を、従来とは異なる方法で示そうとする動きがあったことは重要です。
そして、十七条憲法には、政治に関わる人々がどのような姿勢で仕事を進めるべきかという考え方が示されています。
地位を示す仕組みと、行動を整えるための考え方。
この二つを合わせて見ると、王権の政治を、それまでより組織的なものへ変えようとする動きが存在していた可能性が浮かび上がります。
では、そのような変化は、なぜ7世紀初めに進められたのでしょうか。
その背景を考えるためには、日本列島の内部だけでなく、当時の東アジアの政治情勢にも目を向ける必要があります。