聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【3】
3. 蘇我馬子と厩戸皇子|二人は協力者だったのか、それとも異なる考えを持っていたのか
前回の歴史探訪では、仏教の受容をめぐる蘇我氏と物部氏の対立を取り上げました。
587年、物部守屋が敗れた後、蘇我馬子は王権の政治に大きな影響力を持つようになります。
その蘇我馬子とともに、推古天皇の時代に重要な人物として登場するのが厩戸皇子です。
『日本書紀』では、両者が政治に関わり、新しい制度や仏教の振興を進めていったとされています。
では、二人は常に同じ政治的な考えを持っていたのでしょうか。
それとも、それぞれ異なる立場や目的を持ちながら協力していたのでしょうか。
蘇我氏は、王族との婚姻を通じて政治的な関係を強めてきた有力氏族です。
また、仏教寺院の建立にも積極的でした。
一方、厩戸皇子は王族の一員として、王権の政治に関わる立場にあったとされています。
両者の立場は同じではありません。
そのため、仏教の振興や新しい制度の整備について協力していたとしても、政治的な目的がすべて一致していたとは限らないでしょう。
ただし、二人の間に明確な対立が存在したことを示す確実な同時代の記録は限られています。
後世に形成された人物像から、両者の関係を単純な対立として描くことも適切ではありません。
重要なのは、7世紀初めの政治を、厩戸皇子一人が計画し、実行したものとして考えないことです。
大きな制度を整えるためには、それを支持する人々や、実際に運用する人々の存在が必要です。
また、制度を導入することで、それまでの地位や役割が変化する豪族たちもいたでしょう。
そのような中で、推古天皇や蘇我馬子、厩戸皇子らが、どのような関係を築いていたのか。
この問題を考えることが、冠位十二階や十七条憲法の意味を理解する手がかりになります。
4. 冠位十二階の謎|なぜ豪族たちの地位を新しい制度で示そうとしたのか
603年、推古天皇の時代に、冠位十二階が制定されたと『日本書紀』は記しています。
冠位十二階とは、政治に関わる人々の地位を、十二の段階に分けて示す制度です。
徳・仁・礼・信・義・智という六つの名称に、それぞれ大小を設け、十二の冠位としたとされています。
ここで重要なのは、古代の日本列島に、それまで身分や地位を示す仕組みが存在しなかったわけではないことです。
豪族たちには、氏や姓と呼ばれる集団や称号に関係する仕組みがありました。
有力な一族は、祖先から受け継いできた立場や、王権との関係によって政治的な地位を持っていました。
では、なぜ新たに冠位十二階が必要になったのでしょうか。
一つの解釈として、従来の氏族単位の地位だけではなく、王権に仕える個人に対して冠位を与えようとした可能性が考えられています。
もしそうであれば、冠位十二階には、政治に関わる人々の序列を、従来とは異なる方法で整えようとする意味があったのかもしれません。
ただし、この制度によって世襲的な氏族の仕組みがなくなったわけではありません。
また、冠位十二階がどの程度の人々に与えられ、実際にどのように運用されていたのかについても、十分に明らかになっていません。
さらに、冠位十二階には中国大陸や朝鮮半島の制度からの影響が指摘されています。
当時の東アジアでは、政治に関わる人々の地位を官位などによって示す制度が存在していました。
倭の王権が、それらを参考にして新しい仕組みを取り入れた可能性は十分に考えられます。
しかし、外部の制度をそのまま導入したとは限りません。
日本列島の政治的な状況に合わせて、独自の形に整えられた可能性もあります。
ここで、さらに興味深い問題があります。
冠位十二階は、一般に聖徳太子が制定した制度として知られています。
しかし、『日本書紀』の603年の記事には、冠位制度の設置が記されている一方で、厩戸皇子一人が構想し、完成させたと確認できるほどの具体的な製作過程が残されているわけではありません。
制度の制定が推古朝の重要な出来事だったことと、その立案者が誰だったのかという問題は、分けて考える必要があります。
推古天皇の判断があったのかもしれません。
蘇我馬子や厩戸皇子が協議した可能性もあります。
さらに、中国大陸や朝鮮半島の制度を知る人々が、具体的な仕組みの検討に関わっていた可能性も考えられます。
一つの制度が成立するまでには、さまざまな人々の知識や経験が必要だったのではないでしょうか。
冠位十二階の重要性は、誰か一人が制度を考えたということだけではなく、それまでの政治的な関係を新しい方法で整理しようとした動きが存在したことにあるのかもしれません。
5. 十七条憲法の謎|「和を以て貴しと為す」は何を意味していたのか
604年、十七条憲法が制定されたと『日本書紀』は記しています。
十七条憲法は、聖徳太子に関係するものとして、特によく知られているものの一つです。
その第一条には、有名な言葉が記されています。
「和を以て貴しと為す」
この言葉は、現在でも人々が協力し、調和を大切にすることを表す言葉として知られています。
しかし、7世紀初めの政治的な状況の中で、この言葉はどのような意味を持っていたのでしょうか。
十七条憲法の第一条は、単に人々が仲良くすることを求めているわけではありません。
人にはそれぞれ異なる考えや立場があり、対立することもある。
しかし、上に立つ者と下にいる者が協力し、物事について十分に話し合えば、道理にかなった判断へ近づくことができる。
そのような考え方が示されています。
つまり、ここでいう「和」は、単に対立を避けることだけではなく、政治に関わる人々が協議し、物事を進める姿勢とも関係しているのです。
ただし、十七条憲法は、現代の民主主義や平等の思想を示した文書ではありません。
第三条には、君主の命令に従うことを求める内容も記されています。
また、官人としての職務や礼儀、政治における公正さなども説かれています。
そのため、十七条憲法は、現在の憲法のように国家の基本的な統治制度や国民の権利を定めた法律とは性格が異なります。
むしろ、王権に仕える人々が、どのような考え方や態度で政治を行うべきかを示した規範として理解することができます。
では、なぜこのような規範が必要だったのでしょうか。
それまでの王権では、有力豪族たちが大きな政治的な力を持っていました。
豪族同士の利害が一致することもあれば、対立することもあったでしょう。
実際、6世紀末には王位継承や仏教の受容をめぐって、蘇我氏と物部氏が武力衝突を起こしたと記録されています。
そうした経験を経た王権にとって、政治に関わる人々が協力し、一定の秩序に従って行動することは、重要な問題だった可能性があります。
しかし、十七条憲法が制定されたとされる604年に、実際に現在伝わる十七条すべての文章が成立していたのかについては、研究上の議論があります。
文章の中に見られる思想や用語が、7世紀初めの状況とどのように対応するのか。
後の時代の政治思想が反映されている部分はないのか。
こうした点についても検討が続いています。
そのため、現在伝わる十七条憲法を、そのまま604年に厩戸皇子が書いた文書だと断定することはできません。
一方で、だからといって、その内容すべてが後世に創作されたものだと決まったわけでもありません。
7世紀初めの王権で形成されつつあった政治思想が、後の時代に整理され、現在の形で伝えられた可能性も考えられます。
ここでも、記録に残されていることと、その成立過程をどこまで明らかにできるのかを区別する必要があります。