聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【2】
1. 聖徳太子とは誰なのか|歴史上の厩戸皇子と、後世に伝えられた人物像
聖徳太子という名前は、日本の歴史の中でも特によく知られています。
しかし、聖徳太子という呼び名は、厩戸皇子が生きていた時代に、そのまま使われていた名前とは考えられていません。
「聖徳太子」は、後の時代に広まった尊称です。
『日本書紀』には、厩戸皇子のほか、豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)などの呼び名も記されています。
厩戸皇子は、用明天皇の皇子とされ、母は穴穂部間人皇女と伝えられています。
推古天皇とは、近い血縁関係にありました。
『日本書紀』によれば、厩戸皇子は574年に生まれ、622年に亡くなったとされています。
また、593年には皇太子となり、推古天皇の政治を補佐したと記されています。
ただし、これらの記述も、8世紀に編纂された『日本書紀』に基づくものです。
当時の政治的な地位を、後の時代の皇太子や摂政と同じ制度として捉えることには注意が必要です。
さらに、『日本書紀』には、厩戸皇子が生まれながらに優れた能力を持ち、多くの人々の話を同時に聞き分けることができたという伝承も残されています。
こうした逸話は、後世に形成された聖徳太子像を考えるうえで重要です。
しかし、実際にそのような能力があったことを、歴史的な事実として確認することはできません。
では、なぜ厩戸皇子は、これほど特別な人物として語られるようになったのでしょうか。
一つの理由として、仏教の広まりとともに、厩戸皇子が仏教を保護した理想的な人物として尊敬されるようになったことが考えられます。
さらに、後の時代には、聖徳太子の事績を記したさまざまな文献が作られ、信仰の対象としての太子像も発展していきました。
その過程で、実際の厩戸皇子の活動と、後世の人々が理想とした人物像が重なり合っていった可能性があります。
ただし、後世の伝承に特別な表現が含まれているからといって、厩戸皇子という人物が実在しなかったことにはなりません。
法隆寺に残る仏像の光背銘や、同時代に近い資料などからも、厩戸皇子に関係すると考えられる人物の存在を検討することができます。
問題は、厩戸皇子が存在したかどうかという単純な二者択一ではありません。
歴史上の人物としての厩戸皇子と、後世に形成された聖徳太子像を、どこまで区別できるのか。
そこに、この人物を考える難しさがあります。
2. 推古天皇の即位|なぜ女帝が王権の中心に立ったのか
厩戸皇子の時代を考えるうえで、まず重要なのが推古天皇の存在です。
592年、崇峻天皇が蘇我馬子の命を受けた人物によって殺害されたと、『日本書紀』は伝えています。
翌593年、額田部皇女が即位しました。
後の推古天皇です。
推古天皇は、日本の歴史書において、最初の女性天皇として位置づけられています。
ただし、それ以前の日本列島に女性の政治的な指導者が存在しなかったという意味ではありません。
中国の歴史書には、3世紀の倭国で卑弥呼という女性の王が活動していたことが記されています。
また、古墳時代にも女性が政治的・社会的に重要な立場を占めていた可能性は、考古資料から検討されています。
では、なぜ6世紀末に推古天皇が即位したのでしょうか。
一つの可能性は、王位継承をめぐる有力者たちの関係を調整するためだったというものです。
当時は、蘇我氏が政治的な影響力を強め、王族との婚姻関係も複雑に結びついていました。
その中で、王統と深い関係を持つ推古天皇が即位することには、政治的な意味があった可能性があります。
しかし、推古天皇が単に豪族たちの都合によって選ばれた、形式的な存在だったと断定することはできません。
『日本書紀』では、推古天皇の時代に重要な制度や外交が進められたと記されています。
また、厩戸皇子や蘇我馬子の役割が強調されている一方で、推古天皇自身がどのような政治的な判断を行っていたのかは、十分に明らかになっていません。
ここで考えたいのは、なぜ私たちは、この時代の政治を聖徳太子一人の働きとして理解しがちなのかということです。
冠位十二階や十七条憲法が制定されたと伝えられる時代の王権の中心には、推古天皇がいました。
そして、蘇我馬子をはじめとする有力豪族たちも、政治に関わっていました。
これほど大きな制度の変更が、一人の皇子だけの判断で実現したと考えることには、慎重であるべきでしょう。
推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子。
さらに、その周囲で政治や記録、外交、実務に関わっていた人々。
そうした複数の存在を考えることで、この時代の政治が少し違って見えてくるのではないでしょうか。