聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【1】
7世紀の初め、日本列島は新しい時代を迎えようとしていました。
6世紀後半に伝わった仏教は、王権の政治や豪族たちの関係に大きな影響を与えていました。
蘇我氏と物部氏の対立は武力衝突へと発展し、587年、物部守屋は蘇我馬子らの軍によって討たれたと伝えられています。
その後、飛鳥の地では本格的な仏教寺院の建立が進められました。
飛鳥寺です。
百済から渡ってきた寺院建築や瓦製作、金属加工などの技術者たちが、日本列島の人々とともに新しい建築物を作り上げていきました。
それまで巨大な古墳を築くことに多くの力を注いできた社会に、仏塔や金堂、仏像など、新しいものづくりが広がり始めていたのです。
しかし、変化していたのは信仰や技術だけではありませんでした。
政治の仕組みもまた、大きく変わろうとしていました。
それまでの王権は、有力豪族たちとの関係によって支えられていたと考えられています。
各地には独自の力を持つ有力者が存在し、土地や人々をまとめ、政治や軍事、生産活動などに関わっていました。
王権は、そうした有力者たちの協力を得ながら、広い地域との関係を維持していたのでしょう。
ところが、7世紀に入ると、人々の地位や政治に関わる者の行動を、一定の制度や考え方によって整えようとする動きが記録されるようになります。
冠位十二階。
十七条憲法。
そして、遣隋使。
いずれも、古代日本の政治が変化していく過程を考えるうえで重要な出来事です。
これらの制度や外交に深く関わった人物として、後世まで語り継がれてきたのが聖徳太子です。
本来の名は、厩戸皇子(うまやとのみこ)。
推古天皇の時代に政治を補佐し、仏教を広め、冠位十二階や十七条憲法の制定に関わったとされています。
しかし、その人物像には、いくつもの謎が残されています。
『日本書紀』に記された厩戸皇子の姿は、どこまで当時の実態を伝えているのでしょうか。
冠位十二階や十七条憲法は、本当に厩戸皇子一人の考えによって生まれたのでしょうか。
蘇我馬子や推古天皇、そして名前の残されていない多くの人々は、どのような役割を果たしていたのでしょうか。
さらに、中国の歴史書『隋書』には、倭の王について、日本側の歴史書とは異なるように見える記述が残されています。
そこに登場する倭王は、いったい誰だったのでしょうか。
そして、ものづくりの歴史から見ても、この時代には大きな変化が起きていました。
寺院建築や仏像製作が発展し、新しい技術や知識を学ぶために、人々が海を越えて移動していました。
一方、日本列島では、古くから受け継がれてきた木材加工、金属加工、窯業などの技術が、新しい用途へ応用されていきます。
政治制度を変えようとする動きと、技術や文化が変化していく動き。
その二つは、どのように関係していたのでしょうか。
今回は、聖徳太子として知られる厩戸皇子の実像を手がかりに、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使、法隆寺、そして古代のものづくりを支えた人々の存在まで、7世紀初めの日本列島で何が起きていたのかを探っていきます。