聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【5】
8. 遣隋使の謎|なぜ倭は中国の巨大な王朝へ使者を送ったのか
6世紀末、中国大陸では大きな変化が起きていました。
589年、隋が南北朝時代の分裂を終わらせ、中国大陸の広い地域を統一しました。
隋は、政治制度や軍事、外交などの面で強い力を持つ王朝でした。
日本列島にとっても、隋の成立は重要な出来事だったと考えられます。
それまで倭は、中国の南朝や朝鮮半島の国々と交流してきました。
5世紀には、倭の五王が中国南朝の宋へ使者を送り、官爵などを求めていたことが、中国の歴史書に記されています。
しかし、6世紀には東アジアの政治情勢が変化し、中国大陸に新しい統一王朝が登場したのです。
では、倭は隋と、どのような関係を結ぼうとしたのでしょうか。
中国の歴史書『隋書』には、600年に倭から使者が訪れたという記述があります。
ところが、同じ600年の遣使について、『日本書紀』には対応する明確な記録がありません。
一方、『日本書紀』には607年、小野妹子が隋へ派遣されたことが記されています。
中国側の記録にも607年の倭からの使者が登場するため、両者は同じ外交活動に関係すると考えられています。
ただし、記録の内容は完全には一致していません。
では、なぜ600年の遣使が『日本書紀』に記されていないのでしょうか。
単に古い記録が失われたのでしょうか。
あるいは、後の時代に歴史を整理する過程で、何らかの理由によって記載されなかったのでしょうか。
その理由は明らかになっていません。
また、遣隋使の目的についても、さまざまな可能性が考えられます。
隋と外交関係を結ぶことで、東アジアにおける倭の政治的な立場を強化しようとした可能性があります。
中国大陸の制度や文化、技術を学ぼうとした可能性もあります。
さらに、朝鮮半島の政治情勢に対応するため、隋との関係を重視したことも考えられます。
こうした目的は、互いに関係していたのかもしれません。
ただし、遣隋使がすべて厩戸皇子一人の判断によって派遣されたと確認できるわけではありません。
推古天皇を中心とする王権の外交政策として考える必要があります。
蘇我馬子や、外交に関わる知識を持つ人々が、どのような役割を果たしたのかについても検討する必要があるでしょう。
遣隋使は、単なる外国への訪問ではありませんでした。
海を越えて異なる政治制度や文化に接し、外交交渉を行う大きな事業だったのです。
9. 日出ずる処の天子|なぜ隋の皇帝は国書を不快に思ったのか
607年の遣隋使について、特に有名なのが国書に記されていたとされる言葉です。
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
一般に、日の出るところの天子が、日の沈むところの天子へ書を送り、無事を問うという趣旨に解釈されています。
この記述は、中国の歴史書『隋書』に残されています。
『隋書』によれば、隋の煬帝はこの国書を見て不快に思い、礼を欠く文書を再び取り次がないよう命じたとされています。
では、なぜ煬帝はこの国書を不快に思ったのでしょうか。
よく知られているのは、倭の王が隋の皇帝と対等な立場を主張したためだという解釈です。
中国の皇帝は、天下を治める特別な存在として位置づけられていました。
そのため、倭の王が自らも「天子」と称することは、隋の皇帝から見れば受け入れがたい表現だった可能性があります。
ただし、「日出ずるところ」と「日没するところ」という表現そのものが、相手を見下す目的で使われたと断定することはできません。
地理的な位置関係を表した可能性もあります。
また、仏教的な世界観や当時の外交文書の表現との関係を考える研究もあります。
重要なのは、国書の文章が異なる文化や政治的な価値観の中で、どのように受け取られたのかという問題です。
倭の王権は、自らをどのような立場に置こうとしていたのでしょうか。
隋の皇帝は、それをどのように理解したのでしょうか。
双方の認識が一致していなかった可能性があります。
そして、この国書について、もう一つの大きな疑問が残されています。
実際に、この文章を考え、作成したのは誰だったのでしょうか。
『日本書紀』では、遣隋使の派遣は推古天皇の時代の出来事として記されています。
後世には、聖徳太子が国書を考えたという理解が広まりました。
しかし、『隋書』には、国書の作成者が厩戸皇子だったとは記されていません。
外交文書を作るためには、漢文を理解し、外交上の表現を使いこなす知識が必要です。
また、相手国の政治制度や文化を知ることも重要だったでしょう。
そのため、実際の国書作成には、文字や外交に精通した人々が関わっていた可能性があります。
彼らが誰だったのかについては、確実なことは分かっていません。
それでも、外交の場で使われる一つの文章が、国と国との関係に大きな意味を持っていたことは確かです。
10. 『隋書』に登場する多利思北孤|倭王は推古天皇だったのか
遣隋使の歴史には、さらに興味深い謎があります。
『隋書』には、当時の倭王について「多利思北孤」と読める表記が登場します。
一般に「タリシヒコ」などと読まれてきた名前です。
また、倭王には妻がおり、太子として利歌彌多弗利と記された人物がいたという内容も見られます。
ところが、日本側の歴史書では、607年の倭の王権の中心にいたのは推古天皇です。
推古天皇は女性でした。
では、なぜ中国側の歴史書には、男性の王を思わせるような記述が残されているのでしょうか。
一つの解釈は、中国側が倭の政治的な仕組みを十分に理解していなかったというものです。
使者から聞いた説明を、中国の制度や政治的な価値観に合わせて理解した可能性があります。
また、倭の王権内部には、推古天皇のほかに、外交上重要な役割を担う男性の王族が存在していた可能性も考えられます。
そこから、多利思北孤を厩戸皇子と結びつける説もあります。
しかし、『隋書』の記述だけで、多利思北孤を厩戸皇子と同一人物だと確定することはできません。
また、名前の音をどのように復元するかについても、慎重な検討が必要です。
さらに、『隋書』の記述が複数の情報を整理する過程で、異なる時期や人物に関する情報を組み合わせている可能性も考えられます。
つまり、当時の倭王について、中国側と日本側の記録には、簡単には説明できない違いが存在しているのです。
ここで重要なのは、どちらか一方の史料を無条件に正しいと決めないことです。
『日本書紀』は、後の日本の王権が編纂した歴史書です。
一方、『隋書』は、中国側の記録をもとに編纂された歴史書です。
それぞれ異なる立場や目的を持っていました。
そのため、同じ時代の出来事について、異なる内容が記されることもあります。
では、実際の7世紀初めの倭の政治は、どのような仕組みだったのでしょうか。
推古天皇が王権の中心にいたことと、厩戸皇子や蘇我馬子が政治的に重要な役割を担っていたことは、どのような関係にあったのでしょうか。
『隋書』の記述は、そうした問題を考えるための重要な手がかりになります。
そして、歴史を考えるときには、一つの国の記録だけでは見えてこないものがあることを教えてくれます。