聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【6】
11. 小野妹子と裴世清|海を渡った使節は何を見てきたのか
607年、『日本書紀』によれば、小野妹子が隋へ派遣されました。
そして608年、小野妹子は隋の使者である裴世清(はいせいせい)らとともに帰国したとされています。
『隋書』にも、裴清という人物が倭へ派遣されたことが記されています。
裴世清と裴清は同一人物と考えられています。
ここで興味深いのは、隋からの使者が実際に倭を訪れ、その政治や社会に接したと記録されていることです。
『隋書』には、使者が百済方面を経由し、海を渡って倭へ向かった経路に関係する記述が残されています。
対馬や壱岐、筑紫と考えられる地名も登場します。
これらの記述は、当時の海上交通や地域同士の関係を考える重要な手がかりです。
ただし、『隋書』に記された地名を、すべて現在の地名に確実に対応させることができるわけではありません。
また、記された経路が実際の航路をどこまで正確に反映しているのかについても、検討が必要です。
それでも、使節が中国大陸と日本列島の間を移動するためには、多くの人々の協力が必要だったでしょう。
船を作る人々。
船を操る人々。
海の状況や航路を知る人々。
食料や水を準備する人々。
そして、各地で使節を迎え、必要な物資や宿泊場所を用意する人々。
外交の記録には、王や使節の名前が中心に残されます。
しかし、実際に外交を成立させるためには、こうした人々の活動が欠かせなかったはずです。
また、使節が外国で見聞きしたものは、政治的な制度だけではなかったでしょう。
中国大陸では、巨大な都市や宮殿、寺院などが造られていました。
それらを実際に見た使節たちは、日本列島では見られなかった建築や製品、技術に接した可能性があります。
ただし、小野妹子が具体的にどの施設を見学し、どのような技術を学んだのかを示す詳しい記録は残されていません。
そのため、後の日本列島に現れる新しい技術を、すべて小野妹子の遣隋使によって伝えられたものと考えることはできません。
それでも、遣隋使が日本列島と中国大陸を直接結びつける重要な交流の一つだったことは確かです。
12. 遣隋使に同行した留学生と学問僧|技術や知識は誰が持ち帰ったのか
608年、『日本書紀』には、小野妹子らが再び隋へ派遣されたことが記されています。
このとき、学生や学問僧も同行したとされています。
その中には、高向玄理、僧旻、南淵請安など、後の時代の政治や学問に関係する人物が含まれていました。
こうした人々は、中国大陸で新しい知識や文化を学んだと考えられています。
しかし、学んだ内容は一つではなかったでしょう。
仏教の教えを学ぶ人。
漢文や中国の学問を学ぶ人。
政治制度や行政に関係する知識に接する人。
さまざまな目的を持つ人々が、大陸へ渡っていた可能性があります。
そして、彼らの中には、長い年月を中国大陸で過ごした人物もいました。
帰国した後、その経験を日本列島の政治や文化へ生かしていったと考えられています。
ただし、彼らが実際にどのような教育を受け、何を学び、どのような方法で知識を伝えたのかについては、十分に分かっていない部分もあります。
ここで注目したいのは、単に外国から新しい制度や製品を持ち帰るだけではなく、それを理解できる人材を育てようとしていた可能性です。
新しい制度を取り入れるためには、その内容を理解し、日本列島の政治的な状況に合わせて使う必要があります。
また、新しい技術を取り入れる場合でも、完成品を見ただけでは、必ずしも同じものを作ることができるわけではありません。
材料の性質を知り、道具の使い方を学び、製作工程を理解する必要があります。
そして、その知識を他の人々に伝えることができなければ、技術は広がっていきません。
新しい知識を持つ人が帰国しても、その人だけが理解している状態では、社会全体の変化にはつながりにくいでしょう。
学んだことを伝え、実際の仕事へ応用し、次の世代へ受け継ぐ。
そのような過程を通じて、知識や技術は社会に根づいていきます。
遣隋使に同行した学生や学問僧たちの存在は、当時の王権が外国との交流を通じて、人々の知識や能力を広げようとしていた可能性を示しています。
そして、その成果は、帰国した直後だけでなく、その後の時代にも影響を与えていったと考えられるのです。
13. 法隆寺の謎|厩戸皇子は本当に寺院を建立したのか
奈良県斑鳩町に、法隆寺があります。
現存する世界最古級の木造建築群を持つ寺院として、世界的にも知られています。
法隆寺は、厩戸皇子に関係する寺院として古くから伝えられてきました。
寺の伝承では、用明天皇が病気の回復を願って寺院の建立を志し、その遺志を受け継いで推古天皇と厩戸皇子が607年に建立したとされています。
しかし、法隆寺の歴史には大きな謎があります。
現在の建物が、607年に造られたものなのかという問題です。
『日本書紀』には、670年に法隆寺が火災に遭い、建物が焼失したという記述があります。
一方、現在の法隆寺には飛鳥時代の建築様式を残す金堂や五重塔が存在しています。
では、現在の建物は火災の後に再建されたのでしょうか。
それとも、火災の記録に何らかの問題があり、創建当初の建物が残されているのでしょうか。
この問題は、かつて「法隆寺再建・非再建論争」として、長い間議論されてきました。
その後の発掘調査では、現在の西院伽藍とは異なる位置に、古い寺院の遺構が確認されました。
若草伽藍と呼ばれる遺構です。
若草伽藍からは、古い瓦や基壇などが発見され、現在の法隆寺以前に寺院が存在していたことが考えられています。
これらの考古学的な成果から、現在の西院伽藍は7世紀後半以降に再建されたものとする見方が有力になっています。
ただし、再建の具体的な年代や工程など、すべてが明らかになっているわけではありません。
ここで考えたいのは、法隆寺が単に厩戸皇子の時代を伝える建築物というだけではないことです。
その建物には、何度も修理や保存が行われてきた歴史があります。
そして、再建された建物にも、それを実際に造った職人たちの技術が残されています。
法隆寺を考えることは、厩戸皇子という人物の歴史だけでなく、長い年月をかけて受け継がれてきた木造建築技術の歴史を考えることでもあるのです。