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聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【7】

2014.11.26

14. 法隆寺の木造建築|なぜ1300年以上も建物が残されてきたのか

法隆寺の金堂や五重塔を見ていると、一つの疑問が生まれます。

なぜ、これほど古い木造建築物が現在まで残されてきたのでしょうか。

木材は、金属や石とは異なる性質を持つ材料です。

湿度や温度によって伸縮し、腐朽や虫害などによって劣化することがあります。

また、火災によって焼失する危険もあります。

それにもかかわらず、法隆寺には、7世紀後半以降に造られたと考えられる木造建築物が残されています。

ただし、その理由を、古代の建築技術が優れていたからという一つの説明だけで片づけることはできません。

建物を残すためには、適切な材料や構造だけでなく、長い年月にわたる修理や維持管理が必要です。

実際、法隆寺の建物も、建設当初の部材がすべてそのまま残されているわけではありません。

長い歴史の中で、傷んだ部材の交換や補修が行われてきました。

そのうえで、建物全体の構造や形が受け継がれているのです。

ここで、古代の職人たちが持っていた技術について考えてみましょう。

大きな木造建築物を造るためには、まず必要な木材を確保する必要があります。

木材は、樹種や育った環境によって性質が異なります。

また、同じ樹種であっても、木目や節、乾燥状態などによって加工のしやすさや強度が変わります。

そのため、建物のどの部分に、どのような木材を使うのかを考えることが重要になります。

さらに、柱や梁、斗栱などの部材を、必要な寸法や形状に加工しなければなりません。

部材同士を組み合わせる部分では、接合の精度も重要です。

加工が適切でなければ、部材が正しく納まらない可能性があります。

また、建物の重さを支えるためには、それぞれの部材がどのように力を受けるのかを考える必要があります。

法隆寺の建築には、こうした材料の知識と加工技術、構造を考える経験が積み重ねられていると考えられます。

しかし、建築を完成させるために必要だったのは、大工の技術だけではありません。

木材を伐採する人々。

必要な場所へ運搬する人々。

屋根瓦を製作する人々。

金属製の部材や装飾を作る人々。

基壇や礎石を施工する人々。

さまざまな技術が組み合わされることによって、一つの寺院が完成します。

そして、その建物を長く維持するためには、次の世代の職人たちにも技術が受け継がれていく必要があります。

法隆寺の建築が現在まで残されてきたことは、古代に優れた建物が造られたことだけでなく、それを守り、修理し、技術を受け継いできた人々がいたことも物語っているのです。

15. 法隆寺の釈迦三尊像|光背に刻まれた623年の記録は何を伝えるのか

法隆寺には、厩戸皇子の実像を考えるうえで、非常に重要な仏像があります。

金堂に安置されている釈迦三尊像です。

中央の釈迦如来坐像と、その左右に立つ二体の菩薩像によって構成されています。

中央の像の背後には、大きな光背が設けられています。

その光背には、銘文が刻まれています。

この銘文には、622年に「上宮法皇」と呼ばれる人物が病気になり、その回復を願って仏像の製作が発願されたことが記されています。

さらに、上宮法皇が亡くなった後、623年に仏像が完成したことが記されています。

そして、製作者として、司馬鞍首止利仏師という人物の名前が残されています。

一般に鞍作止利、あるいは止利仏師と呼ばれる人物です。

法隆寺では、この上宮法皇を聖徳太子にあたる人物と捉え、釈迦三尊像を厩戸皇子の追善に関係する重要な仏像として伝えてきました。

この光背銘は、なぜ重要なのでしょうか。

一つは、『日本書紀』だけではなく、仏像に残された文字から、厩戸皇子に関係する人物の存在や、その死後の信仰を考えることができる点です。

ただし、銘文に登場する人物の呼称や年代、文章の成立過程については、研究上の議論もあります。

そのため、銘文のすべてを無条件に622年から623年の出来事を記録したものと考えるのではなく、仏像の様式や史料との比較が必要です。

そして、ものづくりの視点から見ると、もう一つ重要なことがあります。

製作した人物の名前が、実際の製品に残されていることです。

前回の歴史探訪では、飛鳥大仏の製作に関わったとされる鞍作止利について取り上げました。

その人物が、法隆寺の釈迦三尊像の製作者としても記録されているのです。

ただし、製作者の名前が刻まれているからといって、すべての工程をその人物一人が行ったという意味ではありません。

仏像の設計や鋳造、仕上げ、装飾などには、複数の職人たちが関わっていた可能性があります。

鞍作止利は、製作全体を担う立場にあったのかもしれません。

あるいは、自らの技術を使いながら、他の職人たちと協力して製作を進めていた可能性もあります。

銘文だけで、当時の製作体制を完全に復元することはできません。

それでも、釈迦三尊像という具体的な製品と、それを作った人物の名前が結びついて残されていることは、古代のものづくりを考えるうえで非常に貴重です。

16. 飛鳥時代の金属加工技術|仏像はどのように作られたのか

法隆寺の釈迦三尊像は、銅に金メッキを施した金銅仏です。

こうした仏像を製作するには、複数の技術が必要になります。

まず、仏像の形を考えなければなりません。

顔の表情。

身体の姿勢。

衣服のひだ。

手の形。

そして、光背や台座との関係。

これらを全体として調和させる必要があります。

さらに、実際の製作では、金属を鋳造するための鋳型を作り、必要な材料を準備しなければなりません。

金属を溶かし、鋳型へ流し込み、冷却後に鋳型から取り出す。

その後、表面の仕上げや細部の加工が必要になります。

金銅仏では、さらに金メッキの技術も関わります。

古代の金銅仏には、水銀を利用した金アマルガム法による鍍金が用いられた例が知られています。

ただし、法隆寺の釈迦三尊像の各部分について、具体的な製作工程や材料の状態をすべて確認できるわけではありません。

そのため、一般的な古代金銅仏の製作技術と、釈迦三尊像について直接確認されている事実を分けて考える必要があります。

また、仏像の完成には、鋳造技術だけでなく、造形に関する知識も重要です。

仏像の形には、当時の中国大陸や朝鮮半島で発展した仏教美術との関係が指摘されています。

しかし、外来の様式を参考にしたからといって、製品のすべてが外国で作られたわけではありません。

日本列島の工房で、現地の技術者たちが製作した可能性を考える必要があります。

そして、外から伝わった様式や技術が、製作を繰り返す中で独自の表現へと変化していった可能性もあります。

ここで興味深いのは、仏像が単なる装飾品ではなかったことです。

人々は、仏像に信仰や願いを託していました。

そのため、仏像を作る仕事には、形を正確に作ることだけでなく、何を表現するのかという問題も関わっていたでしょう。

法隆寺の釈迦三尊像には、病気の回復や亡くなった人々への願いが、銘文として残されています。

つまり、この仏像には、製品としての形や技術だけでなく、それを作ることになった目的も記録されているのです。

製作した人々は、何のためにこの仏像が必要なのかを、どこまで共有していたのでしょうか。

信仰のために作られた仏像を、技術者たちはどのような仕事として捉えていたのでしょうか。

その答えを直接知ることはできません。

しかし、一つの製品に人々の願いや目的が込められ、それを実現するために技術が使われていたことは、釈迦三尊像から考えることができます。

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