聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【8】
17. 玉虫厨子の謎|小さな仏堂に込められた異なる技術
法隆寺には、もう一つ、古代のものづくりを考えるうえで興味深い文化財があります。
玉虫厨子(たまむしのずし)です。
厨子とは、仏像などを安置するために作られた施設や容器のことです。
玉虫厨子は、飛鳥時代に作られたと考えられる木製の厨子で、高さは約2.3メートルあります。
小さな建築物のような形をしており、屋根や柱、装飾などが精巧に作られています。
さらに、漆による装飾や絵画、金属製の飾り金具が用いられています。
そして、特に珍しいのが、玉虫の羽を利用した装飾です。
金属製の透かし彫りの金具の下に、玉虫の羽が配置されていました。
光の当たり方によって、緑や金色などに見える独特の輝きを持っています。
このような装飾から、玉虫厨子という名前で呼ばれるようになりました。
玉虫厨子は、木工、漆工、金属加工、絵画など、異なる技術を組み合わせた製品です。
それぞれの部品を作るだけでも、高度な技術が必要だったでしょう。
しかし、さらに難しいのは、それらを一つの製品としてまとめることです。
木材で形を作り、表面を仕上げ、装飾を施し、金具を取り付ける。
そして、全体として一つの仏堂のような姿に仕上げる。
そこには、材料の性質や加工方法の違いを理解したうえで、複数の技術を組み合わせる工夫があったと考えられます。
では、玉虫厨子は誰が製作したのでしょうか。
残念ながら、製作者を確実に特定できる資料はありません。
また、具体的な製作年代や、どのような経緯で法隆寺へ伝わったのかについても、十分に明らかになっていません。
そのため、玉虫厨子が厩戸皇子の命令によって作られたと断定することはできません。
それでも、飛鳥時代の日本列島に、これほど多様な技術を組み合わせて一つの製品を完成させる力が存在していたことは重要です。
木材を加工する職人。
漆を扱う職人。
金属製の金具を作る職人。
絵画や装飾に関わる人々。
そのような異なる専門性を持つ人々が、製作に関わっていた可能性があります。
そして、彼らの技術は、それまでの日本列島で培われてきた経験と、中国大陸や朝鮮半島から伝わった新しい知識が、長い時間をかけて組み合わされる中で発展していったものだったのかもしれません。
玉虫厨子を見ると、古代のものづくりが、単に一つの材料を加工する技術だけでは成り立っていなかったことが分かります。
異なる技術を組み合わせることで、それまでになかった製品を作り上げる。
そこにも、飛鳥時代の技術の発展を考える重要な手がかりが残されているのです。
18. 聖徳太子はすべてを一人で実現したのか|政治の歴史に残らなかった人々
冠位十二階。
十七条憲法。
遣隋使。
寺院の建立。
仏教の振興。
これらは、聖徳太子の業績として、長く語り継がれてきました。
しかし、ここまで見てきたように、それぞれの出来事には、多くの人々が関わっていた可能性があります。
冠位十二階のような制度を導入するには、それまでの地位や役割を整理し、新しい仕組みを運用する必要があります。
十七条憲法のような政治的な規範を広めるためには、文章を理解し、その内容を伝える人々が必要だったでしょう。
遣隋使を派遣するためには、外交文書を作る人々、船を動かす人々、航路を知る人々が必要です。
そして、寺院の建立には、設計や建築、金属加工、瓦製作など、さまざまな技術を持つ人々の協力が欠かせません。
どれほど優れた構想があったとしても、それを実際に形にできなければ、社会は変わりません。
一方、技術や知識を持つ人々がいても、その力を必要な仕事へ結びつける仕組みがなければ、大きな事業を実現することは難しかったでしょう。
つまり、政治的な構想と、それを実現する人々の活動は、互いに関係していたと考えられます。
では、聖徳太子として伝えられる人物の役割は、どこにあったのでしょうか。
厩戸皇子が政治的な構想を示し、それを進めるうえで重要な役割を果たしていた可能性はあります。
しかし、すべての制度を一人で考え、すべての外交を指揮し、すべての寺院建築を計画していたと確認できるわけではありません。
推古天皇には、王権の中心に立つ人物としての役割があったでしょう。
蘇我馬子には、有力豪族として政治的な関係を動かす力があったと考えられます。
文字や制度を理解する人々、外交に携わる人々、ものづくりを支える技術者たちも、実際の仕事を通じて時代の変化に関わっていました。
そのような人々の活動が積み重なって、7世紀初めの政治や文化が変化していったのではないでしょうか。
一方、後世の人々は、その変化を象徴する人物として、聖徳太子を特別な存在として語り継いできた可能性があります。
歴史には、複雑な出来事を一人の人物の業績として説明することで、分かりやすく伝えようとする側面があります。
しかし、その人物の名前だけを追いかけていると、実際に社会を支えていた多くの人々の存在が見えにくくなってしまいます。
歴史を動かした人物の名前と、歴史を実際に形づくった人々の仕事は、必ずしも同じ形で記録されるわけではないのです。
19. 聖徳太子像はなぜ広がったのか|歴史上の人物から信仰の対象へ
厩戸皇子が亡くなったと伝えられるのは622年です。
しかし、その後も厩戸皇子に関する伝承は増え続けていきました。
法隆寺をはじめとする寺院では、厩戸皇子に対する信仰が発展していきます。
さらに、後の時代には、聖徳太子の生涯や業績を伝える絵画や文献が作られるようになります。
その中では、聖徳太子は仏教を深く理解し、特別な能力を持つ人物として描かれることがありました。
では、なぜ人々は聖徳太子を特別な存在として尊敬するようになったのでしょうか。
一つの可能性は、日本列島に仏教が広がっていく過程で、仏教を保護した人物としての聖徳太子が重要な意味を持つようになったことです。
また、寺院や僧侶たちにとって、自らの信仰や寺院の歴史を、聖徳太子の存在と結びつけることにも意味があった可能性があります。
しかし、そのような信仰が発展したからといって、歴史上の厩戸皇子の活動がすべて後世の創作だったと決めることはできません。
実際の人物に関する記憶が、長い年月を経て、信仰や伝承と結びついていった可能性もあります。
ここで重要なのは、史料が作られた時代と、その史料が伝えようとしている時代を区別することです。
例えば、7世紀初めの出来事を、8世紀の『日本書紀』がどのように描いたのか。
さらに、9世紀以降の人々が、聖徳太子をどのように理解し、語り継いだのか。
それぞれを分けて考える必要があります。
そのうえで、同時代に近い銘文や考古資料と比較することによって、歴史上の厩戸皇子の実像を少しずつ考えることができます。
聖徳太子の謎は、単に実在したかどうかという問題ではありません。
一人の人物が、なぜ後の時代に大きな意味を持つ存在となり、その人物像がどのように形成されていったのかという問題でもあるのです。