新田義貞、藤島の最期。なぜ歴戦の武将は、わずか五十騎で死地へ向かったのか【2】
藤島城。なぜ、この城の攻防が重要だったのか
藤島城は、現在の福井市藤島町周辺にあったとされる城です。
金ヶ崎城のように、険しい山と海を利用した城ではありません。
越前の平野部に位置し、周囲の地形や交通路を利用して守られていたと考えられます。
現在の藤島城跡には、城郭に関わる土塁の一部が残されていると伝えられています。
ただし、現在確認できる遺構だけで、1338年当時の城の構造を完全に復元することはできません。
どの方向に門があったのか。
どのような堀が巡らされていたのか。
城を守る兵が、どこに配置されていたのか。
そうした細部には、分からないことが残ります。
新田方は、足利方の拠点である藤島城を攻撃しました。
しかし、城を守る平泉寺の衆徒らは抵抗を続けます。
攻める側の新田軍が優勢だからといって、一つひとつの城を簡単に攻略できるわけではありません。
守る側が城の構造を利用し、攻撃側の進路を制限すれば、少数でも長く抵抗できる場合があります。
義貞にとって、藤島城は越前に残る足利方の抵抗を抑えるための重要な目標でした。
しかし、この城の攻略が、義貞自身を思いがけない危険へ引き込むことになります。
なぜ、新田義貞は五十騎ほどで出発したのか
『太平記』によれば、藤島城を攻撃していた新田方の軍勢は、予想以上に苦戦していました。
その知らせを受けた義貞は、わずか五十騎ほどを率いて、戦場の状況を確かめに向かったとされています。
ここに、二つ目の謎があります。
義貞は、鎌倉攻略の経験を持つ武将です。
大軍を率いて戦うことの難しさも、敵の配置を確認することの重要さも、経験していたはずです。
その義貞が、なぜ少人数で行動したのでしょうか。
考えられる事情の一つは、最初から大規模な戦闘を行うつもりではなかったということです。
戦場の状況を確認するだけなら、大軍を動かす必要はありません。
むしろ、少人数の方が早く移動できる場合もあります。
義貞は、自分たちの軍勢が攻めている城の状況を、直接確認しようとしたのかもしれません。
また、藤島城の周辺は新田軍が攻撃している地域です。
義貞が、その移動を危険の少ないものと判断していた可能性もあります。
しかし、それを裏付ける本人の言葉は残されていません。
別の可能性も考えられます。
藤島城の攻略が長引くことで、周辺の戦況に影響が出ることを義貞が懸念していたのかもしれません。
一刻も早く現場の状況を把握し、次の判断を下そうとしていたのでしょうか。
分かっているのは、義貞が少人数を率いて移動したと軍記に記されていることです。
そのとき、義貞自身がどの程度の危険を予想していたのかまでは分かりません。
黒丸城から出てきた敵軍。偶然の遭遇だったのか
新田義貞が向かおうとしていた藤島城とは別に、足利方には黒丸城という拠点がありました。
黒丸城は、斯波高経が抵抗を続けていた重要な城です。
『太平記』によれば、その黒丸城から、細川出羽守や鹿草彦太郎らが率いる軍勢が出撃していました。
目的は、藤島城を攻める新田軍への夜襲だったとされています。
その軍勢が、燈明寺畷付近で義貞の一行と遭遇しました。
ここに、三つ目の謎があります。
足利方は、義貞がそこを通ることを知っていたのでしょうか。
それとも、藤島城へ向かう新田軍を攻撃する途中で、偶然義貞に出会ったのでしょうか。
軍記の記述では、足利方の軍勢は藤島城を攻撃する新田方への夜襲を目的としていました。
つまり、義貞本人を待ち伏せするために出撃したとまでは記されていません。
一方、戦場の周辺では偵察や連絡が行われていたはずです。
敵軍の動きを知るために、人を出して情報を集めることもあったでしょう。
義貞の移動について、何らかの情報が足利方に伝わっていた可能性を、完全に否定することはできません。
しかし、それを示す具体的な記録は確認できません。
偶然だったのか。
義貞の行動が察知されていたのか。
現存する記録から、その答えを確定することは難しいのです。
ただ一つ言えるのは、義貞が予定していた戦場に到着する前に、敵の軍勢と遭遇したということです。
その遭遇が、義貞の人生を終わらせることになります。