新田義貞、藤島の最期。なぜ歴戦の武将は、わずか五十騎で死地へ向かったのか【1】
1338年、閏7月2日。
越前国藤島。
新田義貞は、この地で命を落としたと伝えられています。
鎌倉幕府を滅ぼした武将。
足利尊氏と戦い、湊川の敗北を経験し、越前では息子を失いながらも、再び軍勢を立て直した人物です。
その義貞が、最期を迎えたときに率いていた兵は、わずか五十騎ほどだったと『太平記』は記しています。
相手は三百騎ほどの足利方の軍勢。
義貞の周囲にいた兵は次々と討たれ、義貞自身も致命傷を負って命を落としました。
しかし、ここには不思議なことがあります。
なぜ、越前で勢力を回復し、足利方の城々を攻撃していた義貞が、少数の兵だけを連れて移動していたのでしょうか。
なぜ、敵の軍勢と遭遇したとき、撤退することができなかったのでしょうか。
そもそも、義貞を討った者たちは、最初から新田義貞がそこを通ることを知っていたのでしょうか。
さらに、義貞の戦死から三百年以上が経過した江戸時代。
福井の水田から、一つの兜が発見されました。
その兜は、新田義貞のものだと判断され、発見された場所には戦死を伝える石碑が建てられます。
しかし、その兜が本当に義貞のものだったことを、現在の私たちはどこまで確認できるのでしょうか。
軍記物語に残された戦闘。
水田から現れた兜。
江戸時代の人々が残した石碑。
そして今も福井の地に残る史跡。
それぞれをたどると、新田義貞の最期には、まだ解き明かされていない問題が残されていることに気づきます。
1338年の夏。新田義貞は、敗北寸前の武将ではなかった
新田義貞の最期を考える上で、まず確認しておきたいことがあります。
義貞は、戦いに敗れ続け、逃げ場を失った末に命を落としたわけではありません。
前年の1337年、義貞は金ヶ崎城を失いました。
尊良親王と嫡男・新田義顕が命を落とし、恒良親王も足利方に捕らえられました。
新田軍にとって、極めて大きな敗北でした。
しかし、義貞は越前で再起します。
弟の脇屋義助をはじめとする一族や、越前各地の武士たちが協力し、1338年には足利方の斯波高経を後退させました。
越前府中を押さえ、一度は失った金ヶ崎城も奪還しています。
さらに越後方面では、新田方に連なる武士たちが動いていました。
越前の義貞軍と越後の軍勢が連携すれば、足利方はより広い範囲で対応を迫られる可能性がありました。
もちろん、義貞が越前全体を完全に支配していたわけではありません。
足利方には黒丸城などの重要な拠点が残り、斯波高経も抵抗を続けていました。
それでも、金ヶ崎城を失った直後と比べれば、戦況は大きく変わっていました。
義貞は再び攻める側に立っていたのです。
そのような時期に、なぜ総大将が突然命を落としたのでしょうか。
ここが、藤島の戦いを考える最初の謎です。
平泉寺の人々は、なぜ足利方についたのか
新田義貞の最期につながる出来事をたどると、越前の有力な宗教勢力であった平泉寺の存在に行き着きます。
平泉寺は、白山信仰の重要な拠点でした。
現在の福井県勝山市に残る平泉寺白山神社の周辺には、中世、多くの坊院が広がっていました。
寺院でありながら土地を持ち、地域の人々との結びつきを持つ大きな勢力でもありました。
南北朝の動乱では、寺院に関わる人々も政治や軍事と無関係ではいられませんでした。
自分たちの土地をどう守るのか。
どの武将と協力するのか。
戦乱の中で寺院の活動をどう維持するのか。
そうした問題に直面していたと考えられます。
『太平記』には、斯波高経が平泉寺の衆徒を味方に引き入れるため、藤島荘を与えると約束したことが記されています。
藤島荘は、越前国吉田郡にあった荘園です。
当時、土地から得られる収入や、そこに関わる権利は、武士や寺院の活動を支える重要な基盤でした。
その権利を保障するという約束は、平泉寺の人々にとって大きな意味を持っていた可能性があります。
そして、平泉寺の衆徒は足利方に加わり、藤島城を守ることになります。
ここで注意したいのは、平泉寺の人々が全員、最初から同じ政治的立場だったと決めつけないことです。
中世の大きな寺院には多くの人々が属し、それぞれの考えや利害があります。
また、平泉寺の衆徒が足利方へ加わったことを、単に裏切りという言葉だけで説明することも適切ではないでしょう。
彼らにとっては、自分たちの将来に関わる判断だった可能性があります。
ただし、この選択が、新田義貞の運命に直接関わることになるのです。