今の大阪平野から、水を戻してみる
現在の大阪を見ていると、生駒山の麓まで船が入っていた時代など想像しにくいものです。
東大阪や八尾の町を車で走れば、住宅や工場、道路がどこまでも続いています。
でも、そこから建物も道路も一度全部消して、昔の水面を戻してみると景色が変わります。
縄文海進のころ、大阪湾の水は現在よりずっと東まで入り込み、生駒山地の近くまで
河内湾が広がっていました。
その後、淀川や大和川が大量の土砂を運び続けたことで湾は少しずつ浅くなり、河内潟、
さらに河内湖へ姿を変えていきます。
つまり、現在の大阪平野は最初から今の形で存在したわけではありません。
水だった場所へ土砂がたまり、湿地になり、その土地へ人が入っていった。
ここで面白いのは、人間がただ「水が引くのを待っていた」のではないことです。
新しくできた土地へ住む。
水路をつくる。
田畑を開く。
流れを調整する。
盛土をする。
堤を築く。
自然がつくりかけた土地を、人間が何世代もかけて住める場所へ変えていった。
そう考えると、大阪平野そのものが巨大な人工物にも見えてきます。
もちろん人間だけが造ったわけではありません。
川が土砂を運んだ。
海が後退した。
地形が変わった。
その続きを人間がやった。
自然と人間の共同制作です。
これを頭に入れると、河内湖周辺に大きな集落が生まれた理由も少し理解しやすくなります。
人間は土地が完成してから来たのではありません。
まだ水と陸の境界が動いているところへ入り込み、その変化そのものを利用して暮らした。
昔の大阪は、完成した平野に都市ができたのではなく、人が水と格闘しながら平野そのものを
育てた場所だったと考えています。