藤原秀衡 なぜ義経を守ろうとしたのか【2】
奥州という、一つの運命共同体
ここで考えたいのが、運命共同体という視点です。
秀衡が統治していた奥州には、さまざまな立場の人間が暮らしていました。
土地を治める武士、農業に従事する人々、馬を育てる人々、金の採掘に関わる人々、職人、商人、僧侶。
それぞれの生活も、考え方も、守りたいものも違っていたはずです。
しかし、奥州が戦乱に巻き込まれれば、そこに暮らす人々の生活は大きく変わってしまいます。
武士だけが戦えば済む話ではありません。
田畑が荒れれば食料が不足し、交易が途絶えれば必要な物資も入らなくなる。
職人の仕事が失われ、寺院の維持も難しくなる。
一つの社会が崩れるとき、その影響は身分や職業の違いを超えて広がっていきます。
反対に、社会が安定していれば、人々はそれぞれの仕事を続けることができます。
技術を磨き、経験を積み重ね、次の世代へ知識を伝えることもできます。
秀衡は、こうした人々の関係をどのように見ていたのでしょうか。
当時の人々が、現在の私たちと同じ意味で運命共同体という考え方を持っていたわけではないでしょう。
それでも、平泉という社会が、多くの人々の仕事と生活のつながりによって成り立っていたことは確かです。
秀衡が守ろうとした奥州とは、土地や財産だけではなく、そこで生きる人々の営みそのものだったのかもしれません。
義経という若者を、秀衡はどう見ていたのか
義経が初めて平泉へ向かったのは、1174年頃とされています。
鞍馬寺を出た義経は、奥州藤原氏を頼りました。
若い義経には、まだ平家を滅ぼした英雄としての名声はありません。
源氏の血筋を持っていたとはいえ、自分の力で大きな勢力を動かせる立場でもありませんでした。
では、秀衡はなぜ、その若者を受け入れたのでしょうか。
源氏との関係を将来に役立てようと考えた可能性もあります。
義経の素質に何かを感じたのかもしれません。
ただ、初めて義経を迎えたとき、秀衡が何を考えていたのかを直接伝える確かな記録は残っていません。
興味深いのは、その後の義経の人生です。
義経は1180年、兄頼朝の挙兵を知り、平泉を離れます。
そして源平合戦の中で、数々の戦いに参加することになります。
一ノ谷、屋島、壇ノ浦。
戦いの詳しい経過や義経個人の役割には史料上の検討が必要ですが、平家を滅亡へ導く戦いで、義経が重要な役割を果たしたことは広く知られています。
平泉を出た若者が、時代を動かす武将になっていったのです。
秀衡は、その活躍をどのような思いで聞いていたのでしょう。
誇らしかったのでしょうか。
それとも、源氏の内部で大きな力を持ち始めた義経の将来を、心配していたのでしょうか。
そして1187年。
義経は、再び平泉へ戻ってきます。
今度は、英雄として迎えられたのではありません。
兄頼朝に追われ、身を寄せる場所を求めてやってきたのです。
かつて見送った若者が、大きな戦功を挙げながらも、故郷ともいえる場所へ逃げ帰ってくる。
秀衡には、その姿がどのように映ったのでしょうか。