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藤原秀衡 なぜ義経を守ろうとしたのか【3】

2015.03.18

頼朝に対抗するということ

義経を受け入れることは、単に一人の人間を匿うことではありませんでした。

背後には、頼朝という存在がありました。

頼朝が目指していたのは、平家に代わって武家の政治的な秩序を築くことでした。

そのためには、各地の武士を統率し、自分の命令が及ぶ体制を整える必要があります。

一方、奥州藤原氏は、長い時間をかけて東北地方に独自の支配体制を築いていました。

秀衡は朝廷から官職を与えられ、京都との関係も保っていました。

中央の政治から完全に離れた独立国家をつくっていたわけではありません。

しかし、奥州の政治や経済、軍事には、藤原氏を中心とする独自の仕組みがありました。

頼朝の勢力が広がれば、奥州もその影響から逃れられなくなります。

実際、1186年には、秀衡が京都へ納める馬や金を鎌倉経由とする取り決めが行われています。

これは、秀衡が頼朝との関係を無視していたわけではなく、現実の力関係を見ながら対応していたことを示しています。

秀衡は、戦いだけで物事を解決しようとする人物ではなかったのでしょう。

相手の力を認め、必要な交渉を行いながら、自分たちの立場を守ろうとしていた。

その秀衡が、頼朝に追われる義経を受け入れました。

義経の存在は、奥州にとって大きな危険となり得ます。

しかし同時に、義経には実戦経験があり、源氏の血筋があり、頼朝に対抗する存在としての政治的な意味もありました。

秀衡は、義経を保護することによって、奥州の立場を強めようと考えたのでしょうか。

それとも、政治的な損得だけでは説明できない、人間同士の結びつきがあったのでしょうか。

おそらく、この二つは簡単に切り離せるものではないと思います。

人間の判断には、立場や責任、過去の経験、相手への感情など、いくつもの事情が重なっているからです。

秀衡が最期に託したもの

1187年10月、藤原秀衡は亡くなります。

義経が平泉へ戻ってから、長い時間はたっていませんでした。

『吾妻鏡』には、秀衡が死に際して、息子たちに協力して義経を主君として仰ぐよう命じたという趣旨の記述があります。

この記録は鎌倉側の立場から後年編纂されたものであり、秀衡の言葉をそのまま記録したものと断定することはできません。

しかし、そのような伝承が残されたこと自体、秀衡と義経の関係を考える上で見逃せません。

秀衡は、自分が亡くなった後の奥州を心配していたのでしょうか。

奥州藤原氏の内部には、後継者となる泰衡のほか、国衡や忠衡など複数の息子たちがいました。

父親という中心的な存在を失った後、彼らが同じ方向を向き続けられるとは限りません。

それぞれの立場や考え方が違えば、意見が分かれることもあります。

そして、外からは頼朝の勢力が迫っています。

そのような状況で、戦いの経験を持つ義経を中心に据えることには、一定の意味があったとも考えられます。

しかし、義経を中心にすれば、奥州の人々が本当にまとまることができたのでしょうか。

父から受け継いだ社会を守りたい泰衡と、追われる身となった義経。

二人の立場は、決して同じではありません。

義経にとっては、平泉が自分の命を守るための最後の場所だったかもしれません。

一方、泰衡にとっては、自分だけではなく、家族や家臣、領民たちの生活がかかった土地でした。

同じ平泉にいても、背負っているものが違っていたのです。

秀衡の死後、なぜ結びつきは崩れたのか

秀衡が亡くなった後、頼朝からの圧力は強まっていきます。

1188年には、義経追討に関する命令が繰り返し出されました。

そして1189年、泰衡は義経を攻撃します。

義経は衣川の館で最期を迎えました。

秀衡が生きていれば、同じ結果になったのでしょうか。

この問いに、確かな答えを出すことはできません。

秀衡であれば、頼朝との交渉を続けながら義経を守れたのかもしれません。

あるいは、秀衡であっても、いずれ厳しい選択を迫られた可能性があります。

ただ、一つ考えてみたいことがあります。

秀衡が長年築いてきた奥州の結びつきは、なぜ、その死後に揺らいでしまったのでしょうか。

運命共同体とは、全員が同じ考えを持っている集団ではないと思います。

それぞれが異なる考えや役割を持ちながら、共通するものを守るために力を合わせる。

そこには、互いの信頼だけでなく、意見の違いを調整する力も必要です。

秀衡は、それができる人物だったのでしょうか。

政治的な判断力だけでなく、人間の違いを受け止め、必要なところで一つにまとめていく力を持っていたのかもしれません。

しかし、その力が一人の人物に大きく依存していたとしたら、どうでしょう。

秀衡が亡くなったとき、奥州は支えの一つを失ったことになります。

人々を結びつける仕組みが十分に受け継がれなければ、同じ目標を持ち続けることは難しくなります。

もちろん、奥州藤原氏の滅亡を、後継者たちの結束だけで説明することはできません。

頼朝の軍事力、政治的な働きかけ、朝廷との関係など、さまざまな要因が重なっています。

それでも、秀衡という人物の存在が、奥州にとってどれほど大きかったのかを考えずにはいられません。

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