新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【6】
海が道を開いたのか、人間が道を見つけたのか
稲村ヶ崎の伝承を考えていると、一つの問いが浮かびます。
道がなければ、人間は先へ進むことができないのでしょうか。
もちろん、海や山の地形を、人間の意思だけで変えることはできません。
しかし、周囲の環境を調べ、変化を読み、新しい通り道を探すことはできます。
潮の満ち引きも、その一つです。
満潮のときには通れない場所でも、干潮のときには通れることがあります。
反対に、干潮なら必ず安全に通れるわけでもありません。
波の高さや海底の地形、岩の状態によっては、非常に危険な場合もあります。
それらを考え、進める条件を探す。
もし義貞がそのような判断をしたのであれば、そこには千早城で楠木正成が見せた考え方と通じるものがあるように思います。
正成は、圧倒的な幕府軍に対して、山の地形を利用して戦いました。
義貞も、鎌倉の防御を突破するために、山と海の地形を考えたのかもしれません。
二人の戦い方は同じではありません。
しかし、目の前にある条件を理解し、その中でできる方法を探すという点では、共通するものがあるのではないでしょうか。
そして、その判断を実現するためには、周囲の人々の協力も必要になります。
道を知る人。
敵の動きを知らせる人。
軍勢の進む順序を整える人。
負傷者を助ける人。
そのような人々の働きがなければ、どれほど優れた作戦でも実行することはできません。
稲村ヶ崎の伝承を、単に奇跡の物語として読むだけではなく、その背景にあったかもしれない人間の知識や工夫を考える。
そこにも、歴史探訪の面白さがあると思います。
鎌倉の町へ戦いが広がる
鎌倉への入口が破られると、戦いは町の内部へと広がっていきます。
『太平記』などには、鎌倉の各地で激しい戦いが続いた様子が描かれています。
建物が焼かれ、多くの武士たちが命を落としました。
しかし、戦いの中にいたのは武士だけではありません。
鎌倉には、多くの人々が生活していました。
商人がいました。
職人がいました。
寺院で暮らす僧侶がいました。
そして、家族とともに暮らす人々もいました。
政治の中心である鎌倉が戦場になれば、その影響は町全体に広がります。
家を失う人々もいたでしょう。
仕事を続けられなくなる人々もいたかもしれません。
負傷した人を助け、家族を探し、危険から逃れようとする人々もいたはずです。
義貞の軍勢にとっては、鎌倉攻略は大きな目標でした。
しかし、鎌倉で暮らしていた人々にとっては、自分たちの生活そのものが危険にさらされる出来事だったのです。
歴史には、鎌倉幕府が滅亡したと記されます。
しかし、その一行の背後には、数多くの人間の人生があったことを忘れたくありません。