新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【7】
北条高時は、最後に何を考えていたのか
鎌倉の防御が崩れる中、北条氏の人々は追いつめられていきました。
幕府の中心にいた北条高時も、その一人でした。
高時は、鎌倉幕府の得宗家に生まれ、若くして執権となった人物です。
しかし、その後は執権を退きながらも、北条氏の中心的な立場にありました。
後世の物語では、高時は政治に無関心で、遊びにふけった人物として描かれることがあります。
しかし、そのような人物像を、すべて史実として受け取ることはできません。
高時もまた、幕府という大きな政治組織の中で生きた人間でした。
そして、幕府を支える人々との関係の中にいました。
鎌倉へ義貞の軍勢が迫ったとき、高時は何を考えていたのでしょうか。
各地から届く敗北の知らせ。
京都での六波羅探題の陥落。
そして、鎌倉の入口で続く激しい戦い。
幕府が置かれた状況は、次第に厳しくなっていきました。
高時は、どこまで事態を把握していたのでしょうか。
まだ戦い続けられると考えていたのでしょうか。
それとも、幕府の存続が難しいことを感じていたのでしょうか。
本人の心の中を正確に知ることはできません。
しかし、最後のときが近づいていたことは確かでした。
東勝寺。鎌倉幕府の最後
1333年5月22日。
現在の鎌倉市小町周辺にあった東勝寺で、北条高時をはじめとする北条一門と家臣たちが自害したと伝えられています。
東勝寺は、北条氏と深い関係を持つ寺院でした。
現在、その建物は残っていません。
しかし、東勝寺跡や、近くに伝わる腹切りやぐらなどが、幕府滅亡の記憶を今に伝えています。
『太平記』には、北条一門や家臣たちが最後まで行動をともにした様子が描かれています。
そこには、長年続いた主従関係や一族の結びつきがあったのでしょう。
しかし、私は、この出来事を美しい最期として語るだけでは十分ではないと思います。
北条氏の人々にも、生き続ける道はなかったのでしょうか。
家族を守るために、別の選択ができたのでしょうか。
あるいは、当時の武士社会の中では、降伏した後の処遇を信頼できない事情もあったのでしょうか。
その答えは簡単には出せません。
そして、自害したと伝えられる人々のすべてが、同じ気持ちだったとも限らないでしょう。
幕府の中心にいた人間。
それを支えた家臣。
長い年月をともに過ごしてきた一族。
それぞれに違う人生がありました。
しかし、鎌倉幕府が崩れたとき、その運命をともにすることになったのです。
ここにも、運命共同体という関係の厳しさが現れているように思います。