新田義貞、越前への決断。後醍醐天皇と別れ、二人の皇子を守って北国へ向かった理由【2】
後醍醐天皇は、戦いを諦めたのか
後醍醐天皇が尊氏との講和を受け入れたことを、単純に敗北を認めた行動と考えてよいのでしょうか。
実際には、講和の動きと並行して、後醍醐天皇を支持する勢力が各地へ向かっていました。
北畠親房らは伊勢方面へ。
新田義貞は越前へ。
そして奥州には、北畠顕家とともに行動する皇子・義良親王がいました。
こうした動きを見ると、京都での戦いが難しくなった後も、各地の拠点を利用して勢力を維持しようとする構想があったことがうかがえます。
もちろん、後醍醐天皇が最初からすべてを計画どおりに進めていたと断定することはできません。
政治的な交渉が進む中で、状況に応じて方針が変化した可能性もあります。
しかし、戦いを続けるための人材を各地へ配置するという動きは、実際に起こっています。
一つの場所を守ることが難しくなったとき、別の地域に拠点を求める。
それは敗北を受け入れて終わるのではなく、置かれた環境の中で次の可能性を探る行動でもありました。
ただし、そのためには、各地に向かった人々が現地の武士たちの協力を得なければなりません。
後醍醐天皇の命令があれば、すべての武士が無条件に従うという時代ではなかったのです。
二人の皇子を託された新田義貞
新田義貞が越前へ向かう際、同行したのが恒良親王と尊良親王でした。
恒良親王は後醍醐天皇の皇子で、皇太子とされていた人物です。
尊良親王も後醍醐天皇の皇子で、恒良親王の兄にあたります。
二人を奉じて越前へ向かうことには、大きな意味がありました。
武士だけが地方に移動するのと、皇位継承に関わる皇子を伴って移動するのとでは、政治的な意味が異なります。
皇子たちがいることで、越前において後醍醐天皇の政治的な権威を掲げることができます。
そのもとに武士たちを集め、足利氏に対抗する拠点をつくる可能性もありました。
『太平記』には、後醍醐天皇が恒良親王に皇位を譲り、新田義貞に託したとする記述があります。
これは北陸朝廷構想として論じられる問題ですが、その譲位が正式に成立していたのかについては慎重に考えなければなりません。
ただ、義貞が二人の皇子とともに越前へ向かったことは、単なる一武将の逃走とは異なる政治的な意味を持っていました。
義貞は自分の一族だけでなく、皇子たちの安全と、その先の活動を支える役割を担うことになったのです。
義貞を支えた人々も、共に北国へ向かった
義貞の越前行きには、多くの人々が同行しました。
弟の脇屋義助。
嫡男の新田義顕。
新田一族の堀口貞満や一井義時。
さらに、千葉貞胤や河野通治らの武士も従っていました。
皇子たちの周囲には、公家の洞院実世らもいました。
武士、公家、皇族。
それぞれ生まれた環境も、身につけてきた知識も、担っていた役割も違います。
戦いに慣れた武将もいれば、政治や儀礼に関わってきた人々もいました。
それらの人々が、一つの軍勢として北国を目指すことになったのです。
新田義貞にとって、弟の義助や息子の義顕が同行していたことも重要です。
二人は、ただ命令に従う家臣ではありません。
一族の将来をともに背負う家族でもありました。
義貞が進む道は、彼らの人生にも大きな影響を与えます。
そして、その軍勢の中には、歴史書に名前が残らなかった人々もいたことでしょう。
武器や兵糧を運ぶ者。
馬を世話する者。
道を案内する者。
負傷した仲間を助ける者。
大きな歴史の出来事は、名前の知られた武将だけで成り立っているわけではありません。
多くの人々の行動が重なって、初めて軍勢は進むことができるのです。