東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

  • トップ
  • ニュース
  • 富雄丸山古墳の謎|日本最大の円墳に眠る、巨大蛇行剣と古代の記憶

富雄丸山古墳の謎|日本最大の円墳に眠る、巨大蛇行剣と古代の記憶

2026.06.09

歴史探訪シリーズ 第1回

奈良市の住宅地に隣接する丘陵に、直径約109メートルという日本最大の円墳があります。

その名は、富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)。

一見すると、木々に覆われた静かな丘。しかし、この場所から発見されたものは、日本の古代史を考えるうえで、驚くべきものばかりでした。

全長2メートル37センチにも及ぶ巨大な蛇行剣。

そして、これまでに例のない盾の形をした銅鏡。

さらに、木棺の内部からは、製作された時代が大きく異なる3面の銅鏡と、9点の竪櫛(たてぐし)が発見されました。

なぜ、これほど貴重な品々が一つの場所に集められたのでしょうか。

そこには、どんな人々が暮らし、どんな歴史があったのでしょうか。

今回は、この不思議な古墳から、古代日本の謎を探ってみたいと思います。

日本最大の円墳という不思議

古代日本の巨大な古墳といえば、前方後円墳を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

ところが、富雄丸山古墳は円形です。

しかも、直径約109メートル。日本最大の円墳です。

墳丘は3段に築かれ、周囲には埴輪が並び、北東側には「造出し」と呼ばれる張り出した部分があります。

この造出しから、世紀の発見ともいえる品々が現れました。

しかし、ここで興味深いことがあります。

造出しに設けられた埋葬施設は、最初の計画にはなく、途中で計画が変更されたと考えられているのです。

発掘調査では、先に整えられていた礫敷の面を掘り込んで墓坑が造られ、その後に円丘部の斜面が完成したという順序が確認されています。

なぜ、途中で計画を変更したのでしょうか。

当初とは違う人物を埋葬する必要が生じたのか。

それとも、何か特別なものを納めるためだったのか。

その理由は、まだ分かっていません。

全長2メートル37センチ。巨大な蛇行剣

2022年、造出しの埋葬施設から、巨大な鉄剣が発見されました。

その長さは約237センチメートル。

残された柄や鞘の痕跡まで含めた全長は、約267センチメートルと推定されています。

刀身はまっすぐではありません。

まるで蛇が身をくねらせるように、何度も曲がっています。

これほど巨大な剣を、実際に戦場で振り回すことができたのでしょうか。

普通に考えれば、実戦用の武器としてはあまりにも特殊です。

では、何のために造られたのでしょう。

権力の象徴だったのか。

神聖な儀礼に用いるものだったのか。

あるいは、何かを守り、邪悪なものを遠ざけるためのものだったのでしょうか。

古代の人々にとって、蛇は単なる動物ではありませんでした。

脱皮を繰り返す姿から、再生や生命力の象徴として捉えられることもあります。

この巨大な剣に蛇の姿を重ねるなら、そこには単なる武器とは違う意味が込められていたのかもしれません。

世界に類例のない、盾形銅鏡

蛇行剣とともに発見されたのが、鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)です。

長さ約64センチメートル、幅約31センチメートル。

通常の円形の銅鏡とは異なり、盾のような形をしています。

しかも、その表面には複雑な文様が施されています。

この鏡が置かれていた場所にも注目したいと思います。

鏡は木棺を覆う粘土の中に、斜めに立てかけるように納められていました。

そして、その上に粘土を重ね、水平に整えた場所へ巨大な蛇行剣が置かれていたのです。

つまり、剣と鏡は木棺の中ではなく、木棺の外側に配置されていました。

なぜ、このような納め方をしたのでしょうか。

棺の中に眠る人物を守るためだったのか。

それとも、別の祭祀的な意味があったのか。

剣と鏡がどのような役割を持っていたのか、想像は広がります。

木棺に納められた、時代の異なる3面の鏡

さらに興味深い発見が続きました。

木棺の内部から、3面の銅鏡が重ねられた状態で出土したのです。

その製作年代は、すべて異なっていました。

最も古い虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)は、紀元前1世紀末から紀元後1世紀初頭。

画像鏡は、2世紀末から3世紀前半。

そして三角縁神獣鏡は、3世紀中頃に造られたものと推定されています。

三角縁神獣鏡といえば、卑弥呼との関係がしばしば議論される鏡としても知られています。

ここで考えたいことがあります。

なぜ、製作された時代が大きく異なる3面の鏡が、一つの木棺に納められたのでしょうか。

偶然集まったのでしょうか。

それとも、何世代にもわたって大切に受け継がれていたのでしょうか。

古いものを大切に保管し、特別な機会に用いる。

それは現代の私たちにも理解できる行動です。

例えば、祖先から受け継いだ宝物や、代々守られてきた家宝。

持ち主が変わっても、その品に込められた意味は受け継がれていきます。

もし、この3面の鏡もそのような品だったとしたら。

私たちが今見ているのは、単に3枚の古い鏡ではなく、数百年にわたる人々の歴史の一部なのかもしれません。

鏡と剣が語らないもの

発掘によって、そこに何が埋められていたのかは少しずつ明らかになってきました。

しかし、なぜそれらを埋めたのか。

誰が、どのような思いで納めたのか。

その答えを出土品が直接語ってくれるわけではありません。

だからこそ、歴史には面白さがあります。

実際に残されたものを見つめ、周辺の地形や古い地名、土地に伝わる物語をたどってみる。

一つひとつは小さな手がかりでも、それらをつなぐことで、思いがけない歴史の姿が浮かび上がってくることがあります。

富雄丸山古墳も、そのような場所ではないでしょうか。

古墳の向こうに広がる、登美の歴史

そして、ここからがさらに興味深いところです。

富雄丸山古墳のある地域には、古くから「登美」という地名と関係する伝承が残っています。

『古事記』や『日本書紀』には、神武東征の物語が登場します。

そこには、大和の地で神武軍を迎え撃った長髄彦(ながすねひこ)、そして饒速日命(にぎはやひのみこと)という人物が登場します。

長髄彦は登美毘古(とみびこ)とも呼ばれ、饒速日を君主として奉じたと伝えられています。

そして饒速日は、長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻としたという伝承もあります。

この「登美」と、現在の「富雄」。

二つの地名のつながりは、富雄丸山古墳の歴史を考えるうえで、見逃せない手がかりになるのではないでしょうか。

巨大な円墳。

途中で加えられた埋葬施設。

特別な剣と鏡。

数百年という時間を隔てた3面の銅鏡。

そして、同じ地域に残る古代の王や一族の伝承。

これらは、どのようにつながっているのでしょうか。

次回は生駒山を越えて、東大阪市の日下(くさか)から登美へと続く古代の道をたどりながら、長髄彦と饒速日の物語を探ってみたいと思います。

歴史探訪シリーズ、続きます。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作