北条時行とその一族【第11回】
信濃の山城に残された北条時行の記録
幻の大徳王寺城はどこにあったのか。四か月の籠城と消えた城の謎
1340年10月。
信濃国伊那郡の山々に囲まれた一つの城で、激しい戦いが続いていたと伝えられています。
城の名は、大徳王寺城(だいとくおうじじょう)。
そこに立てこもっていたとされるのが、北条時行でした。
鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の息子です。
1333年、鎌倉幕府が滅亡したとき、時行は生き延びました。
1335年には諏訪頼重らに奉じられて挙兵し、鎌倉を奪還しました。
しかし足利尊氏に敗れ、再び逃亡します。
その後、後醍醐天皇の南朝に加わり、北畠顕家と同じ側で戦いました。
そして1340年。
再び信濃の山城に姿を現したと伝えられているのです。
ところが、この戦いには不思議な問題があります。
大徳王寺城が正確にどこにあったのか、確定していないのです。
さらに、四か月に及んだとされる籠城戦についても、主要な記録が限られています。
一度は幕府を失い、何度も戦いに敗れながら生き延びてきた北条時行。
その足跡を追うと、今度は城そのものの存在と所在地をめぐる歴史ミステリーに行き着きます。
1340年、なぜ再び信濃だったのか
1338年、北畠顕家は和泉国石津で戦死しました。
時行はその後も生き延びていましたが、顕家の最期の戦場にいたのか、いつ軍勢から離れたのかについては不明な点が残っています。
そして1340年、信濃国伊那郡で時行の名が再び現れます。
なぜ信濃だったのでしょうか。
信濃は、時行が最初に逃れた土地でした。
鎌倉幕府が滅亡した1333年、時行は諏訪氏に保護されたと伝えられています。
1335年には、その諏訪氏を中心とする軍勢が時行を奉じて挙兵しました。
しかし、中先代の乱に敗れたことで諏訪頼重や時継らは命を落とします。
時行を支えた中心人物たちが失われたのです。
それにもかかわらず、1340年には再び諏訪氏の人物が時行を支えたと伝えられています。
このことは、北条氏と諏訪氏の関係が、一人の武将の死によって完全に消滅したわけではなかった可能性を示しています。
ただし、その関係がどのように維持されていたのかについては、具体的な記録を確認する必要があります。
『信濃史料』に残された一つの記事
長野県立歴史館が公開する『信濃史料』には、1340年10月24日の記事があります。
そこには、それ以前に北条時行が伊那郡の大徳王寺城で挙兵し、諏訪社上社大祝の諏訪頼嗣がこれを支援したこと、そして信濃守護の小笠原貞宗が城を攻め落としたことが記されています。
この記述だけを見ると、1340年に時行が籠城戦を行ったことが明確に記録されているように思えます。
しかし、ここで重要なのは、その記事の出典です。
『信濃史料』が根拠として挙げているのは「守矢文書」です。
そして、大徳王寺城の戦いの詳細を伝えるものとして知られるのが『守矢貞実手記』です。
この記録をどのように評価するかによって、戦いの理解は変わってきます。
歴史上の出来事を考えるには、記録された内容だけでなく、その記録がいつ、誰によって、どのような目的で書かれたのかを調べる必要があるのです。
『守矢貞実手記』が伝える籠城戦
『守矢貞実手記』には、1340年6月24日、北条時行と諏訪頼継が大徳王寺城に立てこもったとする記述があります。
頼継は、別の資料では頼嗣とも表記されています。
その後、信濃守護の小笠原貞宗が軍勢を集め、7月1日頃から攻撃を始めたとされています。
しかし、城はすぐには落ちませんでした。
守備側は抵抗を続け、数多くの戦闘が行われたと記されています。
そして10月下旬、城はついに落城したと伝えられています。
この記録が事実を反映しているのであれば、時行たちは約四か月にわたり小笠原方の攻撃に抵抗したことになります。
しかし、戦いの細部をそのまま確定した史実として扱うことには注意が必要です。
『守矢貞実手記』は、出来事の当日に書かれた軍忠状のような同時代の直接記録とは性格が異なります。
後世の伝聞や記録が含まれている可能性が指摘されているからです。
本当に四か月間も戦っていたのか
約四か月の籠城。
これが事実だったとすれば、相当な準備と地域の協力が必要だったと考えられます。
山城を守るには、兵士を配置するだけでは足りません。
食料が必要です。
飲み水も欠かせません。
負傷者への対応も必要になります。
さらに、攻撃を受け続ける中で武器を補充し、城の防御施設を維持しなければなりません。
馬を利用していた場合には、その飼料の確保も問題になります。
一方、攻撃する小笠原方も同じです。
四か月にわたり城を包囲するのであれば、多くの人員と物資が必要になります。
周辺に陣地を設け、交通路を押さえ、守備側への補給を妨げることも考えられます。
ただし、実際にどの程度の包囲が行われたのか、何人の兵士が参加していたのかは分かりません。
記録に長期間の戦いが描かれていることと、その間ずっと激しい戦闘が続いていたことは同じではないのです。
では、この四か月という期間は、どこまで確かなものなのでしょうか。
ここに、史料そのものをめぐる謎があります。
一つの記録だけで歴史を決められるのか
箕輪町が公開する町史では、大徳王寺城の戦いを伝える『守矢貞実手記』について、史料としての問題が指摘されています。
特に、その成立時期と記録された出来事との時間的な隔たりが重要です。
記録者が実際の戦いを直接見ていたのか。
それとも、父祖からの伝聞や別の記録をもとに書いたのか。
その違いによって、史料としての評価は変わります。
また、小笠原方の関係史料に、この戦いを直接裏付ける記録が十分に確認できないことも問題とされています。
戦いがなかったと確定したわけではありません。
しかし、後世に伝わる一つの記録だけで、長期間の籠城戦の全容を断定することはできないのです。
ここは、歴史ミステリーとして非常に重要なところです。
記録が残っているから、すべて事実だとは限らない。
反対に、ほかの記録が見つからないから、出来事そのものが存在しなかったとも限らない。
その間にある不確かな部分を、どのように考えるかが問われているのです。
幻の大徳王寺城はどこにあったのか
大徳王寺城には、もう一つ大きな謎があります。
それが所在地です。
『日本歴史地名大系』では、大徳王寺城を所在地不明の城として扱い、現在の高遠城跡付近にあった可能性を指摘しています。
高遠城は、現在の長野県伊那市高遠町にある山城です。
三峰川と藤沢川に囲まれた台地上に位置し、険しい地形を利用しています。
諏訪から伊那谷へ進む交通上の重要な場所でもありました。
こうした立地条件を考えると、時行が大徳王寺城で抵抗したという記録との関係が注目されます。
しかし、高遠城跡にあったと断定することはできません。
現在の高遠城は、その後の時代に改修を受けています。
戦国時代には武田信玄の支配下で城郭として整備され、近世にも利用されました。
そのため、現在残る城郭の姿を、そのまま1340年のものとして考えることはできません。
もう一つの候補、溝口上ノ城
ところが、大徳王寺城の候補地は高遠城だけではありません。
伊那市長谷溝口にも、大徳王寺城趾とされる史跡があります。
溝口丸山の上ノ城と呼ばれる場所です。
この地点は、市指定史跡として紹介されています。
長野県の文化財情報を扱う八十二文化財団の資料では、『守矢貞実手記』の検討を通して、大徳王寺城を溝口上ノ城に比定する見解が示されています。
つまり、現在の歴史資料には、大きく分けて異なる位置を想定する説が存在しているのです。
高遠城付近と考える説。
溝口上ノ城と考える説。
さらに、伊那谷の別の地点に比定する説もあります。
では、なぜ一つの城について、これほど異なる場所が候補になっているのでしょうか。
その理由を考えるには、中世の城の特徴を知る必要があります。
中世の山城は、現在の城と何が違うのか
城という言葉から、石垣や天守閣を思い浮かべる人も多いかもしれません。
しかし、14世紀の山城は、そうした近世城郭とは異なります。
自然の山や尾根を利用し、堀切や土塁、平坦地などを設けることで防御を整える場合がありました。
必要に応じて一時的に利用される城もありました。
また、同じ山が何度も戦いの拠点として使われ、後の時代に改修されることもあります。
そのため、現在残る遺構がいつ築かれたのかを確認しなければ、特定の戦いと結びつけることはできません。
さらに、地名が変化する場合もあります。
一つの場所が、時代によって異なる名称で呼ばれることもあります。
大徳王寺城という名前が、後世にどのように伝えられてきたのか。
これも所在地を考える重要な手がかりです。
なぜ伊那谷が選ばれたのか
大徳王寺城の位置を考えるうえで、伊那谷の地形は重要です。
伊那谷は、東西を山地に挟まれ、天竜川が南北に流れる地域です。
諏訪方面から伊那谷へ入る交通路があり、さらに南へ進めば遠江や三河方面へつながる道もあります。
高遠周辺は、諏訪と伊那谷を結ぶ交通上の要地でした。
そのような場所に軍事拠点を設けることには、一定の意味があります。
しかし、単に交通上の要地だったからという理由だけで、時行がそこに城を築いたと断定することはできません。
実際の戦いにおいて、どの地域の武士たちが協力していたのか。
どの道を小笠原方の軍勢が進んだのか。
どこに補給の拠点があったのか。
これらを検討する必要があります。
中世の戦いでは、地形だけでなく、その土地に暮らす人々の政治的な立場が重要だったからです。
小笠原貞宗は、なぜ時行を攻撃したのか
大徳王寺城を攻撃したと伝えられるのが、小笠原貞宗です。
貞宗は、鎌倉幕府滅亡後に建武政権の信濃守護となり、北条時行の中先代の乱でも反乱勢力と戦った人物でした。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇と対立すると、貞宗は尊氏側に立ちます。
1340年の時点では、足利方として信濃の支配を維持しようとしていました。
一方、時行は南朝に帰順し、足利氏に対抗する立場にありました。
ここで、1335年と1340年を比較すると興味深いことがあります。
1335年、貞宗は建武政権側として時行に対抗しました。
1340年、貞宗は足利方として時行に対抗したと伝えられています。
貞宗の属する政治的な立場は変化していました。
しかし、時行との対立は続いていたのです。
これは、信濃における地域的な勢力争いが、中央の政治情勢の変化と結びついていたことを考える手がかりになります。
諏訪頼嗣という若い協力者
大徳王寺城の戦いで時行を支えたとされるのが、諏訪頼嗣です。
『守矢貞実手記』では頼継という表記も見られます。
諏訪上社の大祝に関わる人物として記されています。
この頼嗣について、記録には興味深い情報があります。
1340年当時、まだ12歳だったとする記述です。
もし、この年齢が正しければ、頼嗣自身がすべての軍事作戦を指揮したとは考えにくいでしょう。
周囲の一族や家臣たちが実際の軍事行動を支えていた可能性があります。
ここで、1335年の北条時行の姿と重なるものがあります。
時行も幼い頃、諏訪頼重らに奉じられて挙兵しました。
そして1340年には、今度は諏訪氏の若い世代が時行とともに戦ったと伝えられているのです。
ただし、頼嗣の年齢や系譜、戦いでの具体的な役割については、記録の信頼性とともに検討する必要があります。
若い人物が軍勢の象徴となり、経験豊富な大人たちがその周囲を支える。
そのような構図があった可能性は考えられますが、実態を確定するには慎重さが必要です。
諏訪頼重の死から五年
1335年8月、諏訪頼重と時継らは鎌倉で自害しました。
その五年後、1340年には頼嗣が北条時行を支えたと伝えられています。
この二つの出来事の間には、一族の世代交代があります。
頼重らが命を落としても、諏訪氏の血筋と地域的な基盤は残っていました。
諏訪社の祭祀も続いていました。
政治的な立場が変化した人々もいたでしょう。
その中で、再び時行を支えた人物が現れたという記録は、北条氏と諏訪氏の関係を考えるうえで重要です。
ただし、諏訪一族の全員が時行を支持していたわけではありません。
一族内部にも異なる立場が存在していました。
そのため、諏訪氏という名前だけで、一族全体が同じ目的に向かって行動していたと考えることはできません。
時行を支えた人々の具体的な関係を、一つずつ確認する必要があります。
城を囲む側と、守る側
大徳王寺城で長期間の籠城があったとすれば、戦いは城内だけで完結するものではありません。
小笠原方は、城への交通路を押さえようとしたかもしれません。
守備側は、外部からの補給を維持しようとした可能性があります。
山地では、周囲の尾根や谷、川の位置が軍事行動に影響します。
また、城の周辺に暮らす人々にも負担が及んだと考えられます。
しかし、具体的な戦闘配置を示す確かな記録が限られている以上、どの尾根に誰が陣を置き、どのように攻撃したのかを断定することはできません。
その一方で、地形を確認することには意味があります。
高遠城説であれば、三峰川と藤沢川に囲まれた台地の特徴を考える必要があります。
溝口上ノ城説であれば、長谷溝口周辺の地形と交通路を検討することになります。
同じ籠城戦を想定しても、場所が変われば軍事的な条件は大きく変わります。
だからこそ、大徳王寺城の所在地は重要な問題なのです。
落城した夜、時行はどこへ向かったのか
『守矢貞実手記』によれば、大徳王寺城は1340年10月23日夜に落城したとされています。
一方、『信濃史料』では10月24日条に、この出来事が整理されています。
この日付の違いも、史料を読む際に注意したい点です。
夜間に城を離れた出来事を翌日の記事として扱った可能性などが考えられますが、実際の経過は原文に即して検討する必要があります。
そして、時行はこの戦いからも生き延びたとされています。
では、どこへ向かったのでしょうか。
伊那谷を南下したのでしょうか。
諏訪方面へ戻ったのでしょうか。
それとも、別の地域に協力者がいたのでしょうか。
具体的な逃亡経路は確認できません。
大徳王寺城の所在地そのものが確定していないため、逃亡経路を推定することも容易ではありません。
しかし、時行がその後も生き延び、1352年に再び歴史の表舞台へ現れることは重要です。
1340年の敗北によって、北条氏再興の動きが完全に終わったわけではなかったのです。
一つの城に残された、三つの謎
大徳王寺城をめぐる問題を整理すると、三つの大きな謎が浮かび上がります。
第一は、城の所在地です。
高遠城説や溝口上ノ城説など、複数の候補地が存在しています。
第二は、戦いそのものの実態です。
四か月にわたる籠城があったとする記録がありますが、史料の成立や信頼性について検討すべき点があります。
第三は、時行の逃亡です。
城が落ちた後、時行がどこへ向かい、誰に守られたのかは明確ではありません。
これらは、互いに関係する問題です。
城の所在地が分かれば、進軍経路や逃亡経路を考える手がかりになります。
戦いの経過が明らかになれば、時行を支えた武士たちの役割も見えてくるかもしれません。
一方、史料の信頼性に問題がある場合には、出来事そのものの理解を見直す必要があります。
歴史ミステリーは、必ずしも一つの答えにたどり着くとは限りません。
しかし、複数の可能性を比べることで、当時の社会や人々の行動をより深く理解することができます。
なぜ時行は、何度も立ち上がったのか
北条時行は、1333年に鎌倉幕府の滅亡から生き延びました。
1335年には中先代の乱で敗れました。
1338年には、協力した北畠顕家が戦死しました。
そして1340年には、大徳王寺城の戦いで再び敗れたと伝えられています。
それでも、時行はその後も生き延びます。
なぜでしょうか。
北条得宗家の再興を目指していたのでしょうか。
足利氏への対抗を続けるためだったのでしょうか。
それとも、生き残った一族や協力者たちのために、別の道を探していたのでしょうか。
時行本人の言葉は限られており、その心情を確定することはできません。
しかし、繰り返し戦いに関わったという行動には、重要な意味があります。
一度の敗北で終わらなかったということです。
そして、そのたびに時行を支える人々が存在していた可能性があります。
諏訪頼重。
諏訪時継。
諏訪頼嗣。
それぞれ異なる世代の人物たちが、北条時行の歴史に登場します。
ただし、その全員が同じ目的や考えを持っていたとは限りません。
時行の生涯を理解するには、彼を支えた人々の事情も追い続ける必要があります。
幻の城が語るもの
大徳王寺城は、今も多くの謎を残しています。
所在地については複数の説があります。
戦いの実態についても、史料の検討が必要です。
そして、時行がどのように生き延びたのかも分かっていません。
しかし、この謎には、南北朝時代の歴史を理解するうえで重要な問題が含まれています。
一つの政権が滅亡しても、その政権を支えてきた人々のつながりは、必ずしも消滅しないこと。
政治情勢が変化すると、かつて敵対した人々が協力することもあること。
そして、戦いに敗れた人物であっても、その後の歴史に影響を与える可能性があること。
北条時行は、何度も敗北しながら生き延びました。
その背後には、史料に名前が残る人々だけでなく、記録に残らなかった多くの人々が存在したのかもしれません。
大徳王寺城の所在地を探ることは、単に一つの城跡を見つけることではありません。
北条時行を支えた人々の歴史を探ることでもあるのです。
そして時行は、1340年の敗北から約12年後、再び歴史の表舞台へ現れます。
今度の舞台は鎌倉です。
その背景には、足利尊氏と弟・直義の間で起きた激しい政治的な対立がありました。
次回は「足利兄弟の争いと、再び鎌倉を奪う時行」。
1352年、北条時行は新田義興らとともに鎌倉へ進軍します。
かつて北条氏を滅ぼした新田義貞。
その息子と、滅ぼされた北条高時の息子が協力するのです。
さらに、足利尊氏と直義の兄弟対立が、その背景にありました。
敵と味方が再び入れ替わる南北朝の戦乱。
北条時行は、なぜ三度目の鎌倉奪還を目指したのでしょうか。
その謎を、足利兄弟の政治的な対立から追いかけていきます。