北条時行とその一族【第10回】
顕家戦死後、時行はどこへ消えたのか
失われた足跡と、信濃の山城に再び現れた北条氏の後継者
1338年5月22日。
和泉国石津で、北畠顕家が戦死しました。
享年21歳。
奥州から二度の大遠征を行い、足利尊氏に対抗し続けた若き公卿の生涯は、ここで終わりました。
しかし、顕家とともに戦った北条時行は、生き延びていました。
時行は、鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の息子です。
1333年、幕府滅亡から逃れました。
1335年、中先代の乱で鎌倉を奪還しましたが、足利尊氏に敗れ、再び逃亡します。
1337年には後醍醐天皇の南朝に帰順し、北畠顕家と同じ側で戦いました。
そして1338年、顕家が命を落とした後も、時行の戦いは続いていくのです。
ところが、この時期の時行の足跡には、再び不明な部分が現れます。
顕家とは、いつ別れたのでしょうか。
顕家の最期の戦場に、時行はいたのでしょうか。
奥州や関東から集まった武士たちとの関係は、その後どうなったのでしょうか。
そして、時行はなぜ再び信濃の山々へ姿を現したのでしょうか。
その謎をたどると、時行が失ったはずの諏訪一族との関係が、再び浮かび上がってきます。
青野原の戦い、その後の時行
1338年1月、北畠顕家は美濃国青野原で足利方と戦いました。
現在の岐阜県大垣市周辺です。
顕家軍には、北条時行も加わっていたと伝えられています。
時行は、足利氏に対抗するため南朝へ帰順していました。
しかし、顕家と時行の目的が完全に一致していたとは限りません。
顕家は、後醍醐天皇の政治的な立場を守り、京都奪還を目指していました。
一方、時行には、北条氏の生き残りとして足利氏に対抗するという事情がありました。
同じ軍事行動に参加することと、同じ政治的な未来を望むことは、必ずしも同じではありません。
青野原の戦いの後、顕家軍は伊勢方面へ転じました。
さらに大和へ進み、足利方と戦います。
しかし、時行がどの時点まで顕家と行動をともにしていたのかについては、不明な点が残されています。
顕家が石津で戦死したとき、時行が同じ戦場にいたと断定することはできません。
二人の歴史を追うと、ここで足跡が分かれていくのです。
北畠顕家を失った南朝
顕家の戦死は、南朝にとって大きな損失でした。
奥州で政治と軍事を担い、二度の西上を率いた人物を失ったからです。
しかも1338年には、新田義貞も越前で戦死します。
南朝側の重要な武将たちが、相次いで命を落としたのです。
一方、足利尊氏は京都を中心に政治的・軍事的な支配を強めていました。
こうした状況の中で、北畠親房らは東国で南朝の勢力を立て直そうとします。
後醍醐天皇の皇子たちを各地へ派遣し、足利方に対抗する拠点を築こうとしたのです。
この動きは、北条時行のその後を考えるうえでも重要になります。
なぜなら、顕家戦死後の時行をめぐる記述には、南朝の東国進出計画と関係するものがあるからです。
1338年、伊勢の港から出発した船団
1338年9月、北畠親房らは伊勢国大湊から船団を出発させました。
目的は、東国で南朝側の勢力を立て直すことでした。
この船団には、義良親王、宗良親王、北畠顕信らが関わっていました。
北条時行も、この東国への進出計画に参加したとする記述があります。
しかし、航海は計画どおりには進みませんでした。
船団は暴風に遭い、各船が離散してしまったのです。
北畠親房は常陸国へたどり着きました。
宗良親王は遠江方面へ向かったとされています。
義良親王らも、当初予定された形で東国へ進むことはできませんでした。
ここで、もう一つの謎が生まれます。
北条時行は、どこへ流れ着いたのでしょうか。
暴風で離散した船団と、時行の行方
時行が1338年の東国進出計画に参加したという記述をたどると、宗良親王との関係が浮かび上がります。
時行が宗良親王と行動をともにし、遠江の井伊城方面へ向かったとする説明があります。
しかし、時行の乗った船や具体的な漂着地点については、史料によって確認できる範囲が限られています。
したがって、時行がどこで船を降り、その後どの道を通ったのかを確定することは困難です。
それでも、顕家が戦死した後、南朝が東国への新たな進出を試みていたことは重要です。
顕家の死によって戦いが終わったのではありません。
北畠親房や皇子たちが、別の方法で南朝の勢力を維持しようとしていました。
時行も、そうした動きと関わっていた可能性があります。
ここで考えたいのは、時行が顕家個人に従っていたのか、それとも南朝との協力関係を維持していたのかという問題です。
顕家の戦死後も南朝側の活動に関わったとすれば、その関係は一人の指揮官との協力だけでは説明できません。
しかし、時行が南朝の政治構想をどこまで共有していたのかは、別の問題として検討する必要があります。
信濃へ戻るという選択
1338年以降、時行の足跡は再び見えにくくなります。
しかし、1340年になると、信濃国伊那郡で時行の名前が現れます。
大徳王寺城の戦いです。
ここで疑問が生まれます。
なぜ、時行は再び信濃へ向かったのでしょうか。
信濃は、1333年に鎌倉幕府から逃れた時行を諏訪氏が保護した土地です。
そして1335年、中先代の乱が始まった土地でもありました。
時行にとって信濃は、北条氏の旧臣や協力者たちとの関係が残る重要な地域だったと考えられます。
しかし、1340年の信濃は、1333年当時と同じ状況ではありません。
諏訪頼重と時継はすでに戦死しています。
建武政権は崩壊し、足利方の勢力が広がっていました。
信濃守護・小笠原貞宗も、足利方として活動していました。
それでも時行は、再び信濃で兵を挙げたと記録されています。
大徳王寺城での挙兵
長野県立歴史館が公開する『信濃史料』には、1340年10月24日の記事として、北条時行が伊那郡の大徳王寺城で挙兵し、信濃守護・小笠原貞宗に攻められたことが記されています。
その出典は「守矢文書」です。
記録によると、時行は諏訪上社大祝の諏訪頼嗣の支援を受けていました。
これが、非常に興味深い点です。
1335年、時行を奉じて挙兵した諏訪頼重と時継は、鎌倉で命を落としました。
ところが1340年、時行は再び諏訪氏の人物と行動をともにしているのです。
頼嗣は、諏訪頼重の孫にあたる人物として伝えられています。
つまり、北条時行と諏訪氏の協力関係は、頼重一人の死によって終わったわけではなかったのです。
五年を経ても続いた北条氏と諏訪氏の関係
1335年の中先代の乱では、諏訪頼重と時継が時行を支えました。
1340年の大徳王寺城の戦いでは、頼嗣が時行を支えたとされています。
この二つの出来事の間には、五年の時間があります。
その間に諏訪氏の内部でも世代交代が進みました。
一族の中心人物が戦死し、政治情勢も変化しました。
それにもかかわらず、時行との関係が再び現れます。
なぜでしょうか。
北条得宗家との長い主従関係が、次の世代にも受け継がれていたのでしょうか。
諏訪氏の一部には、北条氏の再興を望む政治的な立場が残っていたのでしょうか。
それとも、足利方の小笠原氏に対抗するため、時行と諏訪氏の利害が再び一致したのでしょうか。
これらの可能性は、一つだけに限定する必要はありません。
しかし、当事者が実際にどのような目的で協力したのかについては、さらに史料を検討する必要があります。
重要なのは、時行を支える人間関係が、時間を経ても完全には失われていなかったということです。
信濃守護・小笠原貞宗との再対決
大徳王寺城を攻撃したのは、小笠原貞宗でした。
貞宗は、1335年の中先代の乱でも、建武政権側の信濃守護として時行方に対抗した人物です。
その後、貞宗は足利方の有力武将として活動しました。
つまり、時行と貞宗の対立は、1340年に突然始まったものではありません。
1335年にも、両者は敵対する立場にありました。
しかし、1335年と1340年では政治的な背景が異なります。
1335年、時行は建武政権に反抗していました。
1340年、時行は南朝側として足利方に対抗する立場にありました。
一方、貞宗も政治情勢の変化に対応しながら、信濃での支配を維持しようとしていました。
ここには、同じ人物同士が異なる政治情勢の中で再び戦うという、南北朝時代らしい特徴があります。
大徳王寺城はどこにあったのか
この戦いには、もう一つ大きな謎があります。
それが、大徳王寺城の所在地です。
平凡社『日本歴史地名大系』では、大徳王寺城跡について、所在地が確定していない城として説明されています。
現在の長野県伊那市高遠町にある高遠城跡付近に比定する説があります。
しかし、確実にその場所だったと断定できるわけではありません。
なぜ、城の場所が分からないのでしょうか。
中世の城は、近世の石垣を備えた城郭とは異なる形を持つものも多くありました。
山や尾根、谷などの地形を利用し、土塁や堀切などによって防御を整える場合があります。
また、同じ場所が後の時代に改修されることもあります。
時代が変われば、城の名称そのものが変化することもあります。
大徳王寺城の場合も、後世の高遠城との関係を考える必要があります。
しかし、現在残る高遠城の遺構を、そのまま1340年の時行が利用した施設とみなすことはできません。
ここは、現地の地形や考古学的な調査も含めて考えたい問題です。
四か月に及んだとされる籠城
『守矢貞実手記』によれば、時行方は1340年6月頃に挙兵し、10月下旬まで大徳王寺城で抵抗したとされています。
約四か月に及ぶ籠城だったという説明です。
ただし、この期間についても注意が必要です。
大徳王寺城の戦いを伝える史料は限られており、四か月間の戦闘経過を詳しく記した同時代の記録が豊富に残っているわけではありません。
それでも、この記録が示す内容は興味深いものです。
もし長期間の籠城が行われたのであれば、城を維持するためには食料や水、武器などが必要だったはずです。
また、周辺地域の協力がなければ、長期間の抵抗を続けることは難しくなります。
時行と頼嗣だけで城を守っていたわけではないでしょう。
そこには兵士や家臣、物資を運ぶ人々が関わっていたと考えられます。
ただし、参加した武士団の全体像や人数については分かっていません。
城の場所だけでなく、戦いを支えた人々の実像にも謎が残されています。
大徳王寺城の落城
1340年10月24日。
『信濃史料』には、小笠原貞宗が大徳王寺城を攻め落としたことが記されています。
この戦いによって、時行方は敗れました。
しかし、時行がこのとき戦死したという記録はありません。
その後の歴史に再び登場することから、時行はこの戦いからも生き延びたと考えられます。
ここで、これまでの出来事を振り返ってみます。
1333年、鎌倉幕府滅亡。
1335年、中先代の乱の敗北。
1338年、北畠顕家の戦死と南朝の東国進出計画。
1340年、大徳王寺城の落城。
時行は、大きな政治的・軍事的な転機を何度も経験しながら、なお生き延びていたのです。
しかし、その都度、彼を支えた人々の中には命を落とした者もいたでしょう。
また、政治的な立場を変えた人々もいた可能性があります。
時行の生存を、単なる幸運だけで説明することはできません。
そこには、繰り返し協力する人々の存在があったと考えられます。
なぜ時行は捕らえられなかったのか
大徳王寺城が落城した後、時行の行方は再び分からなくなります。
ここで疑問が生まれます。
なぜ時行は、何度も追討を受けながら生き延びることができたのでしょうか。
山間部の地形を利用して逃れたのでしょうか。
諏訪氏や北条氏の旧臣たちが、逃亡を支援したのでしょうか。
それとも、時行の逃亡先に足利方の支配が十分に及んでいなかったのでしょうか。
考えられる可能性はいくつもあります。
しかし、1340年の落城後、時行が具体的にどの道を通り、誰に保護されたのかは明らかではありません。
そのため、逃亡の様子を物語として断定的に描くことはできません。
重要なのは、時行を討ち取ることができなかったという結果です。
そして、時行を支えた勢力が、完全には消滅していなかった可能性があることです。
記録から消える十年以上
1340年の大徳王寺城の戦いの後、北条時行の足跡は再び見えにくくなります。
そして1352年、時行は再び鎌倉をめぐる戦いに登場します。
その間、約12年。
時行はどこで暮らしていたのでしょうか。
信濃にとどまっていたのでしょうか。
伊豆や相模など、北条氏と関係の深い土地を移動していたのでしょうか。
南朝側の武士たちとの連絡を維持していたのでしょうか。
残された史料だけでは、その全体像を明らかにすることは困難です。
しかし、1352年に再び軍事行動を起こしたことを考えると、時行は単に過去の栄光を思い続けていた人物ではなかったと考えられます。
政治情勢が変化したとき、再び行動することのできる関係や立場が残されていたのです。
ただし、その組織や協力関係がどのように維持されていたのかは、今後の検討課題です。
北条時行にとって、諏訪氏は何だったのか
時行の生涯を振り返ると、諏訪氏の存在が何度も現れます。
1333年、鎌倉幕府の滅亡から逃れた時行を保護しました。
1335年、諏訪頼重らが時行を奉じて挙兵しました。
そして1340年、諏訪頼嗣が時行を支えたと記録されています。
北条氏と諏訪氏の関係は、一度の戦いだけで成立したものではありませんでした。
鎌倉幕府の時代から続く主従関係がありました。
信濃における地域的な基盤がありました。
そして、世代を越えて時行と行動をともにしたとされる人々がいました。
一方、諏訪氏のすべての人物が時行を支持したわけではありません。
諏訪上社・下社の違いや、一族内部の政治的な立場にも注意する必要があります。
それでも、北条時行を追うと、諏訪氏との関係を避けて通ることはできません。
時行が何度も生き延びた背景には、こうした地域の人間関係が重要な役割を果たしていた可能性があります。
時行は何を取り戻そうとしていたのか
1335年、時行は鎌倉を奪還しました。
1337年には南朝へ帰順し、足利氏に対抗しました。
1340年には再び信濃で挙兵しました。
その行動を一つにつなげると、時行が単に一度の敗北を取り返そうとしていた人物ではなかったことが分かります。
政治情勢が変化しても、足利氏に対抗する姿勢を続けていました。
しかし、時行の目的が最初から最後まで完全に同じだったとは限りません。
幼い頃の時行は、諏訪頼重らに奉じられる立場でした。
その後、成長し、軍事行動を経験します。
南朝への帰順も経験しました。
そして、1340年には再び信濃で兵を挙げています。
その間に、考え方や目的が変化していた可能性があります。
しかし、本人の心情を詳しく伝える確かな記録は限られています。
時行が何を取り戻そうとしていたのか。
その答えを探るには、行動の背景にある政治情勢と、彼を支えた人々の歴史を追い続ける必要があります。
北条氏の歴史は、まだ終わらない
1340年、大徳王寺城は落城しました。
しかし、北条時行は再び生き延びました。
諏訪頼重を失い、北畠顕家を失い、何度も軍事的な敗北を経験しながら、なお歴史の中に姿を残しています。
そして1352年。
足利氏の内部で大きな対立が起こり、日本の政治情勢は再び変化します。
観応の擾乱です。
足利尊氏と弟・直義の対立によって、足利政権は内部から大きく揺らぎました。
その混乱の中で、北条時行は再び鎌倉を目指すことになります。
今度は、新田義貞の子・新田義興らとともに戦います。
かつて北条氏を滅ぼした新田義貞。
その息子と、滅ぼされた北条氏の後継者が協力することになるのです。
ここにも、南北朝時代の不思議な人間関係があります。
父の世代では敵だった一族が、子の世代では協力者になる。
それぞれの一族は、変化する政治情勢の中で新たな道を選んでいました。
そして時行は、三度目の鎌倉入りへ向かいます。
次回は「信濃の山城に残された北条時行の記録」。
1340年の大徳王寺城の戦いを、さらに詳しく追います。
大徳王寺城は本当に現在の高遠城の場所にあったのでしょうか。
諏訪頼重の孫・頼嗣は、なぜ時行を支えたのでしょうか。
そして、四か月に及んだと伝えられる籠城の実態は、どこまで明らかになっているのでしょうか。
時行が再び姿を消す前に残した、信濃の山城の謎へ迫ります。