楠木正成と足利尊氏。異なる道を選んだ二人は、何を守ろうとしたのか【1】
源義経と頼朝にも重なる運命。勝者と敗者の人生から見えてくるもの
1336年5月25日。
摂津国、湊川。
足利尊氏の軍勢と、楠木正成・新田義貞の軍勢が激突しました。
鎌倉幕府を倒すために、かつて同じ側で戦った人々です。
しかし、わずか3年後、彼らは敵味方に分かれ、互いに命を懸けて戦うことになりました。
結果は足利方の勝利。
楠木正成は弟の正季らとともに命を落とし、尊氏は京都へ進み、新しい武家政権を築いていきます。
一方は敗れて命を失い、もう一方は勝利して征夷大将軍となりました。
歴史の年表では、二人の人生は対照的に見えます。
しかし、それぞれの歩みを詳しく見ていくと、単純に勝者と敗者という言葉だけでは説明できないものが浮かんできます。
正成は、鎌倉幕府の大軍を相手に、地形を利用し、知恵と工夫によって戦いました。
尊氏もまた、一度は九州へ追われながら、多くの武士たちをまとめ直し、勢力を回復させています。
二人とも、変化する状況を読み、仲間の力を借りながら困難を乗り越えようとした人物でした。
では、なぜ二人は敵対することになったのでしょうか。
そして、それぞれが守ろうとしていたものは、何だったのでしょうか。
この問いを考えていると、私たちが以前たどってきた、源義経と源頼朝の人生にも似たものを感じます。
平家を滅ぼすために力を合わせながら、最後には対立した兄弟。
鎌倉幕府を倒すために同じ側で戦いながら、最後には湊川で敵対した武将たち。
時代も人物も違います。
それでも、人々が共通の目的を達成した後、なぜ結びつきを失ってしまうのかという問題が、そこにはあるように思います。
今回は、楠木正成と足利尊氏の人生を比較しながら、私たちが歴史探訪を通じて考えてきた、人間の力と人間同士の結びつきについて、もう一度見つめてみたいと思います。
二人は、まったく異なる環境から歴史の表舞台へ現れた
楠木正成は、河内国を拠点とした武士でした。
現在の大阪府南部にあたる金剛山地の周辺には、正成に関係する赤坂城や千早城の跡が残されています。
しかし、正成がどのような幼少期を過ごし、どのようにして武士たちをまとめる立場になったのかについては、分かっていないことが少なくありません。
一方、足利尊氏は1305年、鎌倉幕府の有力御家人である足利氏の家に生まれました。
足利氏は清和源氏の流れをくむ名門であり、幕府の中でも有力な地位を占めていました。
尊氏には、先祖から受け継いだ家名や所領、代々の家臣たちとの関係がありました。
正成と尊氏では、生まれた環境が大きく違っていたのです。
しかし、ここで考えたいことがあります。
生まれた家の力が大きければ、それだけで優れた指導者になれるのでしょうか。
反対に、大きな後ろ盾がなければ、時代を動かすことはできないのでしょうか。
正成は、河内を拠点に兵を集め、鎌倉幕府の大軍と戦う勢力を築きました。
尊氏は、足利氏の家名と人脈を受け継ぎながら、多くの武士たちを率いる立場になりました。
二人の出発点は違っていても、周囲の人々と関係を築き、実際に行動する力が必要だったことには変わりがありません。
どのような環境に生まれたか。
そして、その環境の中で何を学び、どのように行動したか。
人間の人生を考える上では、その両方を見る必要があるのではないでしょうか。
鎌倉幕府を倒すという、共通の目的
1331年、後醍醐天皇による倒幕の動きが本格化すると、楠木正成は河内で挙兵しました。
赤坂城では幕府軍の攻撃を受け、一度は城を失います。
それでも正成は生き残り、再び兵を集め、1333年には千早城で幕府軍を迎え撃ちました。
一方の足利高氏、後の尊氏は、当初は幕府の命令によって後醍醐天皇方の討伐へ向かいました。
しかし、途中で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻撃します。
そして、新田義貞も関東で挙兵しました。
各地で倒幕の動きが広がり、1333年、鎌倉幕府は滅亡します。
ここで正成と尊氏は、同じ大きな歴史の流れの中にいました。
ただし、二人が直接話し合い、同じ考えによって行動していたことまで確認できるわけではありません。
正成には正成の事情があり、尊氏には尊氏の事情があったでしょう。
それでも、鎌倉幕府を倒すという目的において、彼らの行動は同じ方向へ向かっていました。
では、幕府がなくなった後、彼らはどのような社会を望んでいたのでしょうか。
ここから、二人の人生は大きく分かれていきます。