新田義貞、越前への決断。後醍醐天皇と別れ、二人の皇子を守って北国へ向かった理由【1】
1336年。
鎌倉幕府を滅ぼしてから、わずか3年。
新田義貞は、人生の大きな転機を迎えていました。
かつて上野国新田荘から挙兵し、関東の武士たちを集めながら鎌倉へ進軍した義貞。
その軍勢は北条氏の本拠地を攻略し、長く続いた鎌倉幕府を滅亡へと導きました。
しかし、今度の義貞は、かつてのように勢力を拡大しながら進軍しているわけではありません。
足利尊氏との戦いに敗れ、京都を守ることも難しくなっていました。
そして、義貞が支えてきた後醍醐天皇は、尊氏との講和を受け入れようとしていました。
それまで敵として戦っていた相手と、主君である天皇が和睦する。
そのとき、新田義貞は何を考えたのでしょうか。
戦いを続ければ、天皇の決定に反することになるかもしれません。
しかし、これまで共に戦ってきた家臣や一族を率いる立場として、簡単に武器を置くこともできなかったはずです。
義貞が選んだのは、後醍醐天皇の二人の皇子を奉じ、越前へ向かう道でした。
そこには、新しい時代を信じて戦ってきた武士たちの期待と、一族の命運がかかっていました。
湊川の敗北が変えた、新田義貞の立場
1336年5月25日。
摂津国湊川で、新田義貞と楠木正成の軍勢は足利尊氏・直義らの軍勢と戦いました。
この戦いで楠木正成は命を落とし、義貞は京都方面へ撤退します。
足利軍は勢いを取り戻し、京都へ進みました。
しかし、後醍醐天皇方の抵抗が、ここで終わったわけではありません。
後醍醐天皇は比叡山へ移り、義貞も軍勢を率いて戦いを続けます。
比叡山は京都の北東に位置し、古くから宗教的にも政治的にも大きな影響力を持つ場所でした。
延暦寺には多くの僧侶が集まり、山上には寺院や僧坊が広がっていました。
また、山上から京都や琵琶湖方面へ通じる道があり、軍勢の移動や連絡を考える上でも重要な地形でした。
ここに後醍醐天皇が移ったことは、単なる避難ではありません。
京都を離れても、政治的な権威を保ちながら足利氏への抵抗を続けるための行動でもありました。
一方、尊氏にとっても、京都を占領するだけでは十分ではありませんでした。
後醍醐天皇が抵抗を続ける限り、新しい政治の正統性をめぐる問題は残ります。
尊氏は持明院統の光厳上皇らと結びつき、光明天皇が即位しました。
こうして京都には、尊氏の支持する朝廷が成立していきます。
しかし、後醍醐天皇はなお比叡山にあり、新田義貞をはじめとする武将たちが戦い続けていました。
二つの政治的な権威が対立し、多くの人々がどちらに従うのかを迫られていたのです。
後醍醐天皇が足利尊氏との講和を受け入れたとき
1336年秋。
後醍醐天皇と足利尊氏の間で講和が進められました。
長く続く戦いによって、双方の軍勢は疲弊していました。
後醍醐天皇にとっても、比叡山で抵抗を続けることには限界があったと考えられます。
しかし、ここで難しい立場に置かれたのが新田義貞でした。
義貞は、後醍醐天皇の命を受けて尊氏と戦ってきました。
鎌倉幕府を倒し、建武政権を支え、湊川でも戦い、その後も比叡山で抵抗を続けています。
その義貞にとって、尊氏との講和は何を意味したのでしょうか。
『太平記』には、この講和に対して新田一族の堀口貞満が強く抗議したという場面が描かれています。
堀口貞満は、義貞に従って戦ってきた武将です。
物語では、これまで命をかけて戦ってきた新田一族が、突然、戦う理由を失うことへの苦しみが語られています。
ただし、この場面の発言が実際に交わされた言葉そのものであるかは分かりません。
それでも、この記述は当時の義貞たちが置かれた立場を考える手がかりになります。
戦争は、命令を出した人物だけで行うものではありません。
出陣した武士たちがいて、その家臣や家族がいて、領地で生活を支えてきた人々がいます。
戦いの中で命を落とした者も少なくなかったでしょう。
その犠牲の上に続けてきた戦いが、政治的な講和によって終わろうとしていました。
義貞一人が武器を置けば済む話ではありませんでした。