新田義貞と足利尊氏。鎌倉幕府を倒した二人は、なぜ敵同士になったのか【4】
敗れた者が、間違っていたとは限らない
後の歴史を知っている私たちは、足利尊氏が室町幕府を開いたことを知っています。
一方、新田義貞は尊氏との戦いを続け、1338年、越前国藤島で命を落とします。
結果だけを見れば、尊氏が勝者であり、義貞が敗者です。
しかし、勝利したからすべての判断が正しかったとは限りません。
敗れたから能力がなかったとも言えません。
義貞は鎌倉幕府を滅ぼすほどの軍事行動を実現し、建武政権を支える武将となりました。
尊氏は多くの武士をまとめ、戦況の変化に対応しながら、新しい政治の仕組みを築く方向へ進みました。
それぞれに実績があり、困難があり、時代の変化の中で選択を重ねてきたのです。
そして、どちらの側にも、その判断を信じて行動した人々がいました。
戦いに敗れた人々にも、守りたかった暮らしや家族があったはずです。
歴史を勝者の側からだけ見れば、敗者の選択は誤りに見えやすくなります。
反対に、敗者への同情だけで勝者を悪人にしてしまえば、それもまた人物の実像から遠ざかってしまいます。
新しい時代をつくることの難しさ
鎌倉幕府を倒したとき、多くの人々は新しい時代に期待したことでしょう。
しかし、古い仕組みを終わらせることができても、すべての人が納得する新しい仕組みをつくれるとは限りません。
昨日まで協力していた仲間でも、目指す未来が違えば意見が分かれます。
考え方が違うだけなら、話し合うこともできるでしょう。
けれども、そこに領地や一族の存続、多くの人々の生活が関わると、簡単には譲れない問題になります。
義貞も尊氏も、変わりゆく時代の中で、新しい答えを求め続けた人物だったのではないでしょうか。
私たちは、その答えが後の歴史でどのような結果になったかを知っています。
しかし、当時の二人には、その先の未来は見えていませんでした。
目の前で起きる出来事を受け止め、限られた情報の中で判断し、自分たちの進む道を決めなければならなかったのです。
かつて同じ目的に向かって力を合わせた二人が、やがて別々の道を進み、敵として向き合うことになった。
それは単なる裏切りや野心の物語ではなく、新しい時代をつくろうとした人々が直面した、避けがたい困難を物語っているように思います。
そして、その対立は新田義貞と足利尊氏だけで終わるものではありませんでした。
楠木正成、北畠顕家、後醍醐天皇、足利直義。
それぞれの人々が異なる立場から行動し、日本は南北朝の動乱へと進んでいきます。
鎌倉幕府を滅ぼした二人が、なぜ敵同士になったのか。
その答えを一つに決めることはできません。
ただ、二人が置かれた環境と歩んだ道をたどることで、歴史に残された勝敗だけでは見えてこない、人間の姿が少しずつ浮かび上がってくるのではないでしょうか。