新田義貞と足利尊氏。鎌倉幕府を倒した二人は、なぜ敵同士になったのか【3】
新田義貞、足利尊氏を討つために出陣する
1335年11月。
後醍醐天皇は足利尊氏の追討を決め、新田義貞が軍勢を率いて東へ向かいました。
鎌倉幕府を倒すために関東へ進んだ義貞が、今度は同じ倒幕の功労者だった尊氏を討つために進軍する。
わずか2年ほどの間に、歴史は大きく姿を変えていました。
義貞はなぜ、この命令に従ったのでしょうか。
後醍醐天皇への忠義だけだったのでしょうか。
それとも、足利氏が勢力を広げれば、新田氏の立場が危うくなるという判断もあったのでしょうか。
両氏の間には、長い歴史の中で生まれた立場の違いがありました。
鎌倉幕府がなくなったことで、それまでの秩序も変わっています。
武士社会の新しい中心を誰が担うのかという問題は、新田氏にとっても他人事ではなかったはずです。
ただ、義貞本人がどの理由を最も重く考えたかは、断定できません。
確かなのは、義貞が建武政権の軍事的な中心人物として、尊氏追討の役割を担ったということです。
義貞の軍勢は東海道を進み、足利方と戦いながら関東を目指しました。
戦いの舞台となったのは、箱根と足柄の山々でした。
箱根・竹之下。二人の道が完全に分かれた戦場
箱根は、関東と西国を結ぶ重要な場所です。
山々が連なり、通行できる道は限られています。
大軍が移動するには、峠や谷、街道を押さえることが欠かせません。
1335年12月、義貞軍と足利軍は、この箱根・足柄周辺で激突しました。
箱根・竹之下の戦いです。
新田軍は、東へ向かう途中で足利方を破り、戦況を有利に進めた時期もありました。
しかし、箱根周辺での戦闘では状況が変わります。
足利方に寝返る武士も現れ、新田軍は敗退しました。
この戦いの経過については、『太平記』と『梅松論』で記述に違いがあります。
軍勢が移動した日付や戦いの場所、敗走の経過などが必ずしも一致しません。
一方、実際に戦いに参加した武士が功績を報告した軍忠状などから、当時の行動を検討する研究も進められています。
ここで大切なのは、一つの軍記物語に書かれている内容だけを、そのまま歴史のすべてとしないことです。
戦場では、個々の武士がそれぞれの判断で動いています。
家族や家臣を守るために、どちらの軍に属するべきかを考えた者もいたでしょう。
昨日まで味方だった者が、今日は敵になる。
同じ源氏の血を引く一族同士が戦う。
それは、個人の勇気や能力だけではどうにもならない、時代の大きな変化でもありました。
箱根での敗北によって、新田義貞は西へ退きます。
そして足利尊氏は、京都を目指して進軍することになります。
ここから戦いは、二人の武将の対立を超えて、日本全体を巻き込む争乱へ広がっていきました。
二人が異なる未来を選んだ理由
足利尊氏は、武士たちの支持を集めながら、新しい武家政権につながる道を進みました。
一方、新田義貞は建武政権を支える武将として、尊氏との戦いを続けました。
その違いを、尊氏は野心家で義貞は忠義の人だった、と説明することもできます。
しかし、その説明だけでは十分ではありません。
尊氏には尊氏の置かれた環境がありました。
一族や家臣、多くの武士たちとの関係を維持し、戦乱の中で軍勢をまとめていかなければならない立場です。
義貞にも、義貞の置かれた環境がありました。
鎌倉幕府を滅ぼした実績を持ち、建武政権から重要な役割を任され、新田一族とその軍勢を率いる立場でした。
そして後醍醐天皇もまた、かつての武家政権とは異なる政治を実現しようとしていました。
誰もが、同じ条件で未来を選べたわけではありません。
それぞれが背負っているもの、守らなければならないもの、頼りにしている人々が違います。
その違いが、判断を変えていきます。
人は、自分一人で生きているわけではありません。
家族がいて、仲間がいて、共に働き、共に戦ってきた人々がいます。
一人の決断は、その周囲の人々の運命にも関わります。
新田義貞と足利尊氏の対立を考えるとき、二人だけの性格や能力に目を向けるのではなく、その周囲にいた人々も含めて考える必要があるのではないでしょうか。