巴御前は本当に実在したのか。八百年の時を超えて語り継がれた女武者の謎【4】
矢倉に立った板額御前
1201年、越後国の鳥坂城。
板額御前は、幕府の討伐軍を迎え撃つ側にいた。
彼女は髪を結い、武具を身につけ、城の矢倉に立ったという。
そして、攻め寄せる敵に向かって矢を放った。
『吾妻鏡』には、板額の弓の腕前について、非常に高い評価が記されている。
その技術は父や兄たちをしのぐほどだったとされ、彼女の放った矢によって討伐軍に大きな被害が出たという。
しかし、戦いは次第に不利になっていく。
敵軍は正面から攻め続けるだけでなく、板額の位置を狙うようになった。
そして、背後の高い場所から放たれた矢が、彼女を負傷させた。
板額は戦うことができなくなり、ついに捕らえられた。
この一連の出来事は、『吾妻鏡』建仁元年五月十四日条に記されている。
ここで、私たちは考えたい。
板額御前は、なぜこれほど優れた弓の技術を持っていたのだろう。
生まれつきの才能があったのかもしれない。
しかし、それだけではなかったはずである。
強い弓を正確に引くためには、身体の使い方を覚え、繰り返し練習する必要がある。
相手の動きを読み、距離を判断し、矢を放つタイミングを見極めなければならない。
板額がどのような訓練を受けていたのか、その詳細は分からない。
それでも、彼女の能力が実際の戦場で発揮されたことは、記録から読み取れる。
ここに、非常に興味深いことがある。
女性だから弓を引けない。
女性だから戦場では戦えない。
そうした単純な考え方が、当時の現実をすべて説明するわけではなかったのである。
もちろん、女性が男性と同じように戦闘に参加することが一般的だったとまで言えるわけではない。
むしろ、板額の武勇が特別なものとして記録されていることから、当時としても注目される存在だったことがうかがえる。
しかし、実際にそのような能力を持つ女性がいたという事実は、巴御前の物語を考えるうえでも重要である。
巴御前の実在は、まだ確認できない。
それでも、巴御前のような能力を持つ女性が存在すること自体は、あり得ない話ではなかったのである。
板額御前にも、敵方の武将との結婚が語られていた
さらに興味深いのは、板額御前が捕らえられた後のことである。
彼女は鎌倉へ送られ、将軍・源頼家の前に引き出された。
そして、そこに一人の武将が登場する。
浅利義遠(あさりよしとお)。
甲斐源氏の一族に属する武士である。
義遠は、板額御前を妻に迎えたいと願い出たという。
その理由として、板額のように武芸に優れた女性との間に、強い子どもをもうけたいと望んだことが伝えられている。
どこかで聞いたことのある話ではないだろうか。
そう。
第4回で取り上げた、巴御前と和田義盛の伝承である。
『源平盛衰記』では、巴が捕らえられた後、和田義盛が彼女の助命を願い、妻に迎えたという。
しかも、義盛が巴の武勇を評価し、強い子どもをもうけたいと望んだという説明まで共通している。
ここで、私たちは一つの疑問にたどり着く。
巴御前の後半生に語られる物語は、板額御前の実際の人生から影響を受けているのではないだろうか。
これは、以前から研究上でも指摘されてきた可能性である。
ただし、二人の物語が似ていることだけで、どちらかがどちらかを模倣したと断定できるわけではない。
同じような話が、別々の人物について語られることもある。
しかし、巴御前について確認できない後半生の伝承と、板額御前について歴史書に残された出来事との間に、これほど似た部分があることは見逃せない。
もしかすると、巴御前の人物像は、最初から現在知られているような形だったわけではなく、後の時代に知られた女性たちの物語を取り込みながら、大きくなっていったのかもしれない。
ここまでくると、巴御前の謎は一段と深くなってくる。