新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【6】
頓兵衛地蔵。舟を沈めた男が残したという伝承
矢口の渡しに関わる場所の一つに、頓兵衛地蔵があります。
この地蔵には、義興を沈めた舟の船頭が、後に自分の行いを悔やんで建立したという伝承が残っています。
頓兵衛という名前は、義興の事件を題材にした後世の物語でも知られています。
しかし、その名前をそのまま1358年の実在人物として扱うには注意が必要です。
舟を沈めたとされる人物の名前や行動については、軍記、神社の縁起、後世の芸能作品で描かれ方が異なる可能性があります。
頓兵衛地蔵も、事件当時から現在と同じ姿で存在していたことが確認されているわけではありません。
ただし、ここで大切なのは、地蔵の由来がどこまで史実かという問題だけではありません。
なぜ、人々は義興を死に追いやった人物が、後になって罪を悔いたという物語を語り継いだのでしょうか。
事件に加担した人物にも、その後の人生があったと考えたのでしょうか。
あるいは、義興の死に対して、何らかの償いが必要だと感じたのでしょうか。
伝承が生まれた理由は、一つには決められません。
しかし、加害者とされた人物の後悔まで語り継がれていることは、義興の事件が、単純な勝敗だけでは終わらない物語として受け止められてきたことを示しています。
四百年以上後、平賀源内がこの事件を舞台にした
新田義興の死から約四百年後。
江戸時代の1770年、平賀源内が『神霊矢口渡』という浄瑠璃作品を発表しました。
平賀源内といえば、発明や本草学など幅広い活動で知られる人物です。
しかし、源内は戯作者としても活動していました。
『神霊矢口渡』は、福内鬼外という名で発表された作品です。
義興の最期と、その後の新田一族や家臣たちの物語を、舞台芸能として描きました。
作品には、義興の弟とされる義岑や、渡し守・頓兵衛、その娘・お舟などが登場します。
義興の死後に続く人々の行動や、人間関係、葛藤が物語の中心になっています。
ここで注意したいのは、1770年に書かれた舞台作品を、1358年の事件を直接記録した史料として扱わないことです。
作品には、人々の感情を動かすための創作や脚色があります。
人物の設定や会話も、歴史上の出来事と必ずしも一致しません。
しかし、この作品が後世の新田義興像に大きな影響を与えたことは重要です。
中世の軍記物語として伝わった事件が、江戸時代には人形浄瑠璃や歌舞伎を通じて、さらに多くの人々に知られるようになりました。
義興の物語は、歴史の記録から信仰へ、そして芸能へと広がっていったのです。
物語が有名になるほど、実際の出来事は見えにくくなるのか
歴史上の事件が有名になることには、大きな意味があります。
人々がその出来事を知り、興味を持ち、史跡を訪れるきっかけになるからです。
一方で、物語が広く知られるようになると、後世に加えられた場面が、実際に起きた出来事として受け取られてしまうこともあります。
義興の事件にも、そのような問題があります。
『太平記』に記された計略。
神社に伝わる由緒。
地域の伝承。
平賀源内が描いた舞台作品。
それぞれは成立した時代も目的も異なります。
しかし、長い年月の中で、それらが重なり合い、一つの有名な物語として知られるようになりました。
その結果、義興が実際にどのように行動し、どこで命を落とし、誰が事件に関わっていたのかという問題が、物語の印象によって見えにくくなる可能性があります。
だからこそ、歴史を調べるときには、どの時代の記録に何が書かれているのかを確かめる必要があります。
そして、伝承を否定するためだけに調べるのではなく、なぜその伝承が生まれ、人々に大切にされてきたのかも考えたいと思います。
歴史の出来事そのものと、その出来事を後世の人々がどう受け止めたのか。
その両方に目を向けることで、一つの事件から見えてくる世界は大きく広がります。