新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【5】
義興を討った人々は、その後どうなったのか
『太平記』には、義興を討つ計画に関わった人々の、その後の出来事も描かれています。
江戸遠江守が、事件への功績によって恩賞を得たこと。
しかし、その後、矢口の渡し付近で激しい雷雨に遭い、義興の怨霊に追われたという話。
さらに、事件に関わった人々が不幸に見舞われたという伝承も残されています。
ここで軍記は、戦いの記録から、死後の義興をめぐる物語へと姿を変えていきます。
義興は、すでに命を落としています。
それでも、義興を死に追いやった人々が、その後も義興の存在に苦しめられるというのです。
もちろん、怨霊が実際に雷を起こしたと証明できるわけではありません。
一方で、こうした話が伝えられたこと自体には、歴史的な意味があります。
なぜ、人々は義興の死を、それだけで終わる出来事として受け止めなかったのでしょうか。
なぜ、義興の死後にも、その存在が人々に影響を与え続けると考えられたのでしょうか。
その背景には、中世の人々が持っていた死者への信仰や、怨霊に対する考え方があったと考えられます。
雷と火の玉。なぜ義興は怨霊として語られたのか
日本の歴史には、強い恨みを残して亡くなった人物の霊が、災いや怪異を引き起こすと考えられた例があります。
政治的な争いによって命を落とした人物や、無念の死を遂げたと受け止められた人物が、その後、信仰の対象となることもありました。
新田義興も、そのような人物の一人として語られるようになります。
新田神社の由緒には、義興が命を落とした後、周辺に光るものが現れ、人々を恐れさせたという伝承があります。
雷や火の玉などの怪異が、義興の霊と結びつけられたのです。
しかし、この物語を考えるときには、二つの異なる問題があります。
本当にその場所で、当時の人々が何らかの光や雷を目撃したのでしょうか。
そして、その出来事を義興の霊によるものだと考えるようになったのは、いつからなのでしょうか。
雷そのものは自然現象です。
夜間に光る現象にも、さまざまな自然的な原因が考えられます。
しかし、具体的な目撃状況が確認できない以上、それぞれの怪異の原因を決めることはできません。
また、怪異を義興の霊と結びつけたことは、その現象自体の原因とは別の問題です。
そこには、義興の死をどのように受け止め、どのように記憶しようとしたのかという人々の考え方が関わっています。
事件が起きた場所に、ただ恐ろしい話が残ったのではありません。
その話を通じて、義興という人物が、死後も地域の人々の中に存在し続けるようになったのです。
怨霊を恐れた人々は、なぜ神社を建てたのか
現在の大田区矢口にある新田神社は、新田義興を祀る神社です。
その始まりは、義興の死後、その霊を鎮めるために祠が建てられたことにあると伝えられています。
義興は、新田大明神として祀られるようになりました。
ここには、現代の私たちにとって興味深い考え方があります。
恐ろしい存在だと考えられた霊を、ただ遠ざけるのではなく、祀ることで鎮めようとする。
死者への恐れが、やがて信仰へと結びついていくのです。
しかし、義興が最初から現在と同じ形で祀られていたわけではありません。
祠が建てられた時期。
社殿が整えられた時期。
地域の人々の信仰が広がった時期。
それらは同じとは限りません。
また、神社に伝わる縁起が、どの時代にどのような形でまとめられたのかも重要です。
現在の神社の姿から、1358年の出来事をすべて知ることはできません。
ただ、新田義興という人物を祀る信仰が長い年月にわたって続き、現代にまで受け継がれてきたことは確かです。
義興は、戦いに敗れた武将としてだけではなく、地域で大切にされる存在になったのです。