新田義興と矢口の渡し。沈められた舟、消えた渡し場、そして死後に神となった武将の謎【7】
矢口の渡しの事件は、計画的な暗殺だったのか
ここまでの記録をたどると、義興の死には計画的な攻撃があったと考えたくなります。
『太平記』には、義興を誘い出すための働きかけがあり、軍勢を分散させ、舟に細工を施し、対岸へ兵を配置したという、一連の計画が詳しく記されています。
この物語の内部では、偶然の事故ではなく、明確な目的を持った計略として描かれています。
一方、そのすべてを事実として確定するには、史料の問題があります。
誰が実際に命令を出したのでしょうか。
計画に関わった人々の名前は、すべて正確に伝わっているのでしょうか。
義興は、本当に計略を疑うことなく舟に乗ったのでしょうか。
そして、舟底の仕掛けや軍勢の配置は、軍記に書かれたとおりだったのでしょうか。
これらの点については、同時代の独立した記録による確認が十分ではありません。
したがって、義興の死が謀略によるものとして伝えられていることと、その具体的な手順がすべて証明されていることは区別しなければなりません。
また、どの人物が最初に計画を考えたのか、その判断の背景に何があったのかも、簡単には断定できません。
それでも、義興が敵対する勢力にとって無視できない存在だったことは、当時の関東の軍事情勢から考えることができます。
関東で活動する南朝方の武将を排除することには、足利方にとって軍事的な意味がありました。
しかし、そのことだけで具体的な事件のすべてを説明できるわけではないのです。
死後に神となった義興は、敗者だったのか
新田義興は、1358年に命を落としました。
その後、足利氏の武家政権は続き、室町時代へとつながっていきます。
政治的・軍事的な結果だけを見れば、義興は自分たちの目指した形で関東の支配を実現できなかった人物です。
しかし、義興の歴史をそこで終わらせることはできません。
義興を支えた人々がいました。
共に命を落としたと伝えられる家臣たちがいました。
その死を記憶し、塚を築き、神社を守ってきた地域の人々がいました。
さらに江戸時代には、義興の物語が浄瑠璃や歌舞伎として広く知られるようになりました。
義興は、政治的な権力を築くことはできませんでした。
しかし、その人物の存在は、別の形で長く人々の中に残ることになったのです。
もちろん、後世に祀られたことによって、義興のすべての判断が正しかったと証明されるわけではありません。
また、義興を討ったとされる人々の行動を、現在の伝承だけからすべて評価することもできません。
ただ、義興の死が長く人々の記憶に残り、信仰や文化につながっていったことは、歴史の結果を考える上で重要です。
人が残すものは、戦いの勝敗だけではないのです。
多摩川の流れが変わっても、消えなかった記憶
現在の多摩川は、堤防が整備され、橋が架けられています。
人々は車や電車、自転車や徒歩で川を渡ることができます。
しかし、1358年の義興たちにとって、川を渡ることは船頭と舟に命を預ける行動でもありました。
その多摩川は、長い年月の中で流れを変えました。
かつて川だった場所に家が建ち、道路が通り、人々が生活しています。
現在の新田神社周辺を歩いても、そこに大きな川が流れていた時代をすぐに想像することは難しいでしょう。
それでも、地域には義興に関わる名前が残っています。
新田神社。
十寄神社。
妙蓮塚。
頓兵衛地蔵。
矢口の渡し跡。
それぞれは、異なる時代の人々によって伝えられ、守られてきました。
川の流れは変わっても、人々の記憶が完全に消えたわけではありませんでした。
しかし、その記憶もまた、長い年月の中で変化してきました。
実際の出来事として記録されたもの。
後世に加えられた物語。
信仰として受け継がれたもの。
それらが重なり、現在の私たちが知る矢口の渡しの歴史が形づくられています。