新田義貞 鎌倉幕府を滅亡へ導いた十五日間。稲村ヶ崎の海は、なぜ道を開いたのか【5】
稲村ヶ崎。山と海が交わる場所
現在の鎌倉市西部にある稲村ヶ崎。
相模湾に向かって突き出した岬で、その東側には由比ヶ浜へと続く海岸が広がっています。
現在では、海岸の景色を楽しむことができる場所ですが、鎌倉時代には、軍勢の進入を妨げる重要な地形だったと考えられています。
山が海へ迫り、岸壁と波打ち際の間には、通れる場所が限られていました。
山側の道を幕府軍に守られていれば、攻める側は簡単に進めません。
しかし、もし海岸側に通れる道が現れたら、どうでしょうか。
幕府軍が厳重に守っている入口を避け、別の方向から鎌倉へ入ることができるかもしれません。
ただし、それには大きな危険もあります。
海の近くを通るためには、潮の満ち引きや波の状態を知る必要があります。
通路が狭ければ、兵士たちが混雑することもあります。
さらに、途中で潮が満ちてくれば、退路を失う危険さえあります。
義貞は、この場所の地形をどれほど知っていたのでしょうか。
地元の人々から情報を得ていたのでしょうか。
それとも、実際に岬を見て、進入できる可能性を考えたのでしょうか。
その具体的な経緯を伝える確かな記録は残っていません。
しかし、この場所には、後世まで語り継がれる有名な伝承が生まれました。
黄金の太刀を海へ投じたという伝承
『太平記』には、稲村ヶ崎で義貞が海に向かって祈る場面が描かれています。
義貞は黄金の太刀を海へ投げ入れ、龍神に祈願したといいます。
すると、それまで満ちていた潮が引き、軍勢が通れる道が現れた。
義貞の軍勢は、その道を通って鎌倉へ攻め込んだと伝えられています。
この場面は、新田義貞の鎌倉攻めを象徴する物語として、長く知られてきました。
しかし、実際に海へ太刀を投じたのかどうかは分かりません。
また、義貞が稲村ヶ崎の海岸を通ったという経過についても、史料によって記述が異なっています。
『太平記』は海岸からの進入を描いています。
一方、『梅松論』などには、極楽寺坂方面から突破したとする記述があります。
さらに、当時の海岸線や地形が現在と同じだったわけではありません。
地震による地盤の変化、海岸の侵食や堆積など、長い年月の中で地形は変わってきました。
そのため、現在の海岸を見ただけで、1333年に軍勢がどの場所を通ったのかを決めることはできません。
それでも、なぜこのような伝承が残されたのでしょうか。
実際に潮の引いた時間帯を利用した進軍があったのでしょうか。
あるいは、地形を利用した突破が、後世の物語の中で龍神への祈願と結びついたのでしょうか。
ここには、いくつもの可能性があります。
そして、もう一つ考えてみたいことがあります。
海の潮が引くことは、昔の人々にとって不思議な出来事だったのでしょうか。
海の近くで暮らす人々は、日々の生活の中で潮の満ち引きを見ていたはずです。
漁に出る人。
船を扱う人。
海岸を通る人。
そうした人々にとって、海の変化は生活に関わる大切な情報だったでしょう。
もし義貞の軍勢が実際に潮の引いた海岸を利用したのなら、そこには地元の海を知る人々の知識が生かされていた可能性もあります。
それが事実だったと断定することはできません。
しかし、神秘的な伝承の背景に、人間が自然を観察し、環境に応じて行動する力があったのではないか。
その可能性にも目を向けてみたいと思います。