「居場所」があるだけで、人は少し安心できる
2014.01.22
昔の日本には、自分の家以外にも居場所がありました。
縁側。
井戸端。
寺や神社の境内。
仕事場の片隅。
祭りの準備をする場所。
そこへ行けば、誰かがいる。
毎日話すわけではない。
深い相談をするわけでもない。
でも、
自分がいても変じゃない場所。
それがあった。
私は、これはかなり大きかったと思っています。
今は、家と職場の間に何もない人が増えました。
家に帰れば一人。
職場では仕事の顔。
その間に、ただそこにいていい場所が少ない。
すると、人はどこにいても何かの役割を求められる。
仕事をする人。
家族としての自分。
友達としての自分。
ちゃんと振る舞う自分。
でも昔の共同体には、
何者でもない自分でいられる場所
があった。
縁側に座る。
誰かの話を聞く。
子どもが遊ぶのを見る。
少し笑う。
何も話さない。
それだけでいい。
私は、人に必要なのは、いつも問題を解決してくれる相手ではないと思っています。
ただ、
「ここにいていい」
と思える場所。
それだけでも、人は少し安心できる。
昔の日本では、地域そのものがそういう場所だったのかもしれません。
家族でもない。
親友でもない。
でも顔を知っている。
名前を知っている。
今日もいるな、と分かる。
そのくらいのつながりが、ちょうどいい時もある。
人は、強い関係だけで支えられているわけではない。
薄いつながりにも、人を守る力がある。
私は、昔の日本の共同体には、そのことを自然に分かっていた強さがあったと思っています。
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