「何も言わなくても分かる」は、優しさではなかった
2014.01.21
昔の日本人は、言葉が少なかった。
そんなイメージがあります。
多くを語らない。
察する。
空気を読む。
それが美徳のように言われることもあります。
でも私は、本来の「察する」は、黙っていても全部分かれという意味ではなかったと思っています。
毎日顔を合わせていたから分かった。
いつもの声を知っている。
いつもの表情を知っている。
いつもの歩き方を知っている。
だから、
今日は少し違う。
その変化に気づけた。
つまり「察する」というのは、
相手をよく見ていたからできたこと。
だったのではないでしょうか。
ところが人との距離が遠くなっても、
「言わなくても分かるでしょ」
だけが残ると、少し苦しくなる。
本当は分からない。
でも聞けない。
本当は伝えたい。
でも察してほしい。
そこですれ違いが生まれる。
昔の共同体では、察したあとに人が動いた。
「今日は疲れてるな」
と思えば声をかける。
「困っていそうだな」
と思えば少し手を貸す。
ただ見て終わりではなかった。
私は、そこが大事だと思っています。
察することは、我慢させるためではない。
相手が言葉にできない時に、少し近づくためのものだった。
でも、今は言葉にしてもいい。
「しんどい」
「手伝って」
「今日は一人にしてほしい」
それを言えることも、同じくらい大切です。
昔の良さを残すなら、
黙って耐える文化ではなく、
相手の変化に気づける文化
を残したい。
そして気づいたら、
「どうした?」
と一言だけ聞く。
私は、その方がずっと日本人らしい優しさだと思っています。
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