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秋田城を訪れた北方の人々――毛皮と鉄をめぐる交易、国家が管理しようとした海の道

2015.10.10

――都の貴族が奪い合った毛皮と、北海道から海を渡ってきた人々の知られざる歴史

西暦802年。

朝廷から、出羽国の役人たちに厳しい命令が出されました。

北海道方面からやって来る人々との私的な交易を禁止するという命令です。

なぜ、交易を禁止する必要があったのでしょうか。

当時、現在の北海道方面から、さまざまな毛皮を持った人々が出羽国を訪れていました。

その毛皮を、都の王族や貴族の家々が競うように買い求めていたのです。

しかも、良質な毛皮から先に買われてしまうため、朝廷へ献上されるのは質の劣る毛皮ばかりになっていました。

朝廷は、こうした私的な取引を以前から禁止していました。

ところが、命令は十分に守られていませんでした。

そこで802年、改めて厳しい禁止令が出されたのです。

この出来事は、『類聚三代格』に収められた太政官符に記録されています。

ここで、非常に興味深い疑問が生まれます。

朝廷が禁止しても続けられていた北方交易とは、どのようなものだったのでしょうか。

そして、北海道から毛皮を運んできた人々は、何を求めて海を渡っていたのでしょうか。

今回の歴史探訪では、秋田城を舞台に、古代の日本海で行われていた交易と、その交易を管理しようとした国家の姿を追いかけます。

秋田城は、なぜ日本海側につくられたのか

秋田城は、現在の秋田県秋田市寺内にあった古代の城柵です。

733年、出羽柵が現在の山形県庄内地方から秋田村高清水岡へ移されたことが、秋田城の始まりとされています。

その後、秋田城と呼ばれるようになり、奈良時代から平安時代にかけて重要な拠点となりました。

城柵という名前からは、敵の攻撃を防ぐ軍事施設を想像するかもしれません。

もちろん、秋田城には軍事的な役割がありました。

しかし、それだけではありません。

地方行政の拠点としての役割があり、周辺の人々との交渉や物資の集積にも関わっていました。

そして、秋田城の大きな特徴の一つが、北海道方面の人々との交流です。

北海道大学の研究では、8世紀から9世紀の秋田城が、北海道の擦文文化を担う人々と本州側との重要な交易拠点だったことが紹介されています。

ここで考えたいことがあります。

朝廷が秋田城をつくったことで、初めて北海道との交流が始まったのでしょうか。

それは違います。

北海道と本州の間には、秋田城が成立するはるか以前から人や物資の移動がありました。

つまり、秋田城は、それまで存在していた北方との交流に、国家の政治的な仕組みが関わる場所になったと考えられるのです。

北海道からやって来た渡嶋の人々

古代の記録には、北海道方面から来た人々を「渡嶋蝦夷」や「渡嶋狄」と呼ぶ記述があります。

渡嶋という名称の地理的な範囲については、現在も研究が続いています。

しかし、8世紀から9世紀の交易記録に登場する渡嶋の人々については、北海道の擦文文化を担った人々との関係が重視されています。

擦文文化は、北海道で発展した古代の文化です。

その社会では、漁労や狩猟、採集に加えて、地域によっては農耕も行われていました。

また、本州方面から鉄製品や土器などが持ち込まれ、人々の生活に利用されていました。

一方、北海道には、本州側の人々が求める資源がありました。

毛皮です。

ヒグマ。

アザラシ。

アシカなどの海獣。

こうした動物の皮は、さまざまな用途に利用できる貴重な品物でした。

北方の人々は、そうした毛皮などを携えて、本州側との交易に参加していたのです。

ここで重要なのは、北海道の人々が単に朝廷から品物を受け取るだけの存在ではなかったことです。

自分たちの地域で得られる資源を持ち、海を越えて交易相手を訪れる人々でもあったのです。

715年、昆布を納め続けていた人々

秋田城がつくられる以前にも、北方との交易や貢納を考える手がかりがあります。

715年の『続日本紀』には、閇村の蝦夷である須賀君古麻比留らが、先祖以来、昆布を納めてきたという記録があります。

彼らは、国府までの往来が遠く困難であるため、近くに郡家を設けてほしいと願い出ました。

ここで注目したいのは、「先祖以来」という言葉です。

この記録が示すのは、715年に初めて昆布の移動が始まったわけではないということです。

それ以前から、昆布を持参する関係が存在していたと伝えられているのです。

そして、人々は遠距離の移動に負担を感じていました。

品物を納めるためには、運ばなければなりません。

距離が長ければ、時間がかかります。

食料も必要になります。

海や川を利用する場合には、天候にも左右されます。

そこで、より近い場所に行政施設を設けることを求めたのです。

この出来事には、交易や貢納を行う人々が、自分たちの負担を減らそうとした姿が見えてきます。

国家との関係が存在していても、地域の人々が何も考えず、一方的に命令に従うだけだったとは限りません。

人々は、自分たちの生活や移動の事情を踏まえ、行政の仕組みに働きかけることもあったのです。

毛皮を求めていたのは、誰だったのか

ここで、802年の禁止令へ戻りましょう。

朝廷が問題にしたのは、王族や貴族の家々による毛皮の買い占めでした。

なぜ、それほど毛皮が欲しかったのでしょうか。

良質な毛皮は、寒さを防ぐ衣料や装飾などに利用できる価値ある品物でした。

また、珍しい北方の毛皮を持つことは、社会的な地位や豊かさを示す意味を持っていた可能性もあります。

しかし、今回重要なのは、毛皮の用途そのものよりも、毛皮を求める人々が都に存在していたという事実です。

北海道で動物を捕獲する人々がいました。

皮を加工する人々もいたでしょう。

それを船に積み、日本海を渡って運ぶ人々がいました。

そして、秋田城などの拠点で品物を交換する人々がいました。

さらに、都から買い付けに来た人々がいたのです。

ここには、広い地域にまたがる経済活動が存在しています。

北海道で採れた毛皮が、秋田城を経由して都の有力者たちの関心を集めていた。

その事実は、古代の日本列島を考えるうえで重要です。

都の暮らしは、遠く離れた北方の人々の仕事や資源とも結びついていたのです。

なぜ朝廷は、良い毛皮を先に確保したかったのか

では、なぜ朝廷は、貴族たちの取引を禁止したのでしょうか。

802年の太政官符には、良質な毛皮が私的な取引で先に買われ、残った粗悪な毛皮が朝廷への献上品とされていたことが記されています。

朝廷にとっては、献上品を受け取る仕組みが損なわれる問題でした。

ここで、古代の交易が単なる自由な商売ではなかったことが分かります。

北方の人々が持参した品物には、朝廷へ納められるものがありました。

その一方で、私的な取引によって購入される品物もあったのです。

国家は、貢納と交易の順序や内容を管理しようとしていました。

しかし、価値ある品物を求める人々は、その管理の外側でも取引を行っていました。

しかも、地方行政を担当する出羽国司が、禁止令を十分に守っていなかったことまで記録されています。

これは、単に地方の役人が命令を忘れていたという話ではありません。

交易の現場には、朝廷の制度だけでは制御しきれない経済的な動きが存在していたことを示しています。

国家が決めた交易の仕組みと、実際に品物を求める人々の行動は、必ずしも一致していなかったのです。

北海道の人々は、何を受け取っていたのか

ここまで毛皮を中心に見てきました。

では、北海道の人々は、毛皮と引き換えに何を得ていたのでしょうか。

考古学的な資料から、重要な手がかりが見つかっています。

鉄製品です。

北海道の擦文文化の遺跡からは、本州方面に由来する鉄製の道具が出土しています。

刀子。

斧。

鎌。

鉄製の鏃。

こうした道具は、生活や生産活動を支える重要なものでした。

例えば、斧があれば木材を加工できます。

刀子は、さまざまな細かな作業に使えます。

鎌は植物の採取や農耕にも利用できます。

鉄の道具は、使い方によって人々の仕事を大きく変える可能性があります。

一方、北海道では、当時の本州側と同じような製鉄・鍛冶の生産体制が広く整っていたわけではありません。

そのため、本州から運ばれる鉄製品は重要な交易品になっていました。

もちろん、出土した鉄製品のすべてが秋田城を経由したとは限りません。

別の交易経路も存在していたでしょう。

しかし、秋田城を中心とする北方交易が、北海道の人々による鉄製品の入手と関係していたことは、研究上重要視されています。

北海道から毛皮が運ばれ、本州から鉄製品が渡る。異なる土地で得られるものを交換する関係が存在していたのです。

土器も海を渡っていた

北海道の古代遺跡からは、鉄製品だけでなく、須恵器など本州方面に由来する土器も確認されています。

須恵器は、窯で高温焼成された陶質の土器です。

本州では古墳時代から生産され、古代の社会で広く利用されました。

その須恵器が、北海道にも運ばれていたのです。

ここで考えてみましょう。

器は、毛皮のように軽い品物ではありません。

壊れる可能性もあります。

それでも、海を越えて運ばれていました。

なぜ、北海道の人々は本州の器を求めたのでしょうか。

実用性があったのかもしれません。

使い慣れた土器とは異なる特徴が、評価されていた可能性もあります。

また、外部からもたらされる品物を所有することに、社会的な意味があったかもしれません。

個々の器が、どのような目的で使われたのかは、出土状況を詳しく調べる必要があります。

しかし、少なくとも本州でつくられた品物が北海道まで移動していたことは分かります。

そして、それを可能にしたのは海の道でした。

北海道の人々は、交易相手を選べたのか

ここで、もう一つ重要な問題があります。

北海道の人々は、誰と交易するかを自由に選べたのでしょうか。

北方の人々と本州側との交流は、秋田城だけで行われていたわけではありません。

海上交通には、複数の経路が存在していたと考えられます。

津軽海峡を越える経路。

日本海を南下する経路。

本州北部の海岸や河口を利用する経路。

また、北海道の内部でも、地域間の物資移動が行われていました。

そのため、北方交易を一つの港だけで説明することはできません。

しかし、秋田城が重要な交易拠点になると、国家が管理する施設で品物を交換する機会が増えていきます。

そうなれば、国家との関係が交易の条件に影響を与えるようになるでしょう。

朝廷へ貢納するもの。

交換によって得られるもの。

訪問した人々への饗応。

こうした仕組みが、政治的な関係と結びついていたのです。

ここで注目したいのは、国家による管理があったからといって、北海道の人々が一方的に従っていたとは限らないことです。

彼らもまた、自分たちが必要とする品物を求めて行動していました。

交易の仕組みを理解するには、管理する側だけでなく、実際に品物を持って訪れた人々の判断にも目を向ける必要があります。

780年、戦いの中でも交易関係を守ろうとした

秋田城の歴史には、もう一つ興味深い記録があります。

780年。

東北地方では、朝廷の支配に対する大きな抵抗が起きていました。

伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)による反乱が起き、多賀城が焼かれるなど、東北の政治情勢が大きく揺れた時期です。

そのような状況の中でも、朝廷は渡嶋の人々との関係に配慮するよう命じています。

『続日本紀』には、渡嶋の人々が長年にわたって朝廷へ貢納を続けていたことが記されています。

そして、出羽国の役人たちに、彼らを丁重に扱うよう求めたのです。

ここで重要なのは、朝廷が北方の人々をすべて同じ敵として扱っていたわけではないことです。

地域によって関係は異なっていました。

朝廷と争っていた人々もいました。

一方、朝廷との交易や政治的な関係を維持していた人々もいました。

つまり、古代の東北や北海道の人々を、一つのまとまった集団として考えることはできません。

それぞれの地域に、それぞれの事情があったのです。

そして、朝廷自身も、その違いを意識しながら対応していました。

810年、寒さを理由に帰国を延期した人々

さらに興味深い記録があります。

810年、『日本後紀』には、渡嶋の人々200人余りが陸奥国の気仙郡に到着したことが記されています。

しかし、陸奥国は彼らを管轄する地域ではないとして、帰るよう求めました。

そこで、渡嶋の人々は次のように訴えたとされています。

今は寒い季節で、海路を渡ることが難しい。

春になるまで滞在し、その後に故郷へ帰りたい。

朝廷は、この申し出を認め、滞在中の衣服や食料を支給するよう命じました。

この記録は、古代の北方交易を考えるうえで非常に重要です。

まず、200人余りという大きな集団が移動していたことです。

次に、秋田城を中心とする日本海側の経路だけでなく、太平洋側の気仙地方にも渡嶋の人々が現れていたことです。

そして、最も注目したいのが、季節による航海の制約です。

現在の私たちは、船や航空機で比較的自由に移動できます。

しかし、古代の航海は風や波、季節に大きく左右されました。

安全に移動できる時期を判断することは、人々の生活に直結する問題だったのです。

海を渡る人々は、政治的な命令だけでなく、自然環境と自分たちの航海技術を踏まえて行動していたのです。

秋田城で発見された、不思議な水洗トイレ

ここで、秋田城の発掘調査にも目を向けてみましょう。

秋田城跡からは、古代の水洗トイレと考えられる遺構が発見されています。

この施設は、8世紀中頃につくられ、8世紀末から9世紀初め頃まで利用されていたと考えられています。

排泄物を沈殿槽に集め、上澄みを排水する構造を持っていました。

自然の地形を利用した、当時としては特徴的な施設です。

さらに、この遺構からは、ブタを食べる習慣を持つ人々との関係を考える手がかりとなる寄生虫卵が確認されています。

当時の日本列島では、ブタを日常的に食べる習慣は一般的ではありませんでした。

そのため、大陸から来た人々がこの施設を使用した可能性が指摘されています。

渤海の使節との関係も考えられています。

ただし、実際に誰が使用したのかを確定することはできません。

それでも、この遺構が示す問題は興味深いものです。

秋田城には、地域の人々だけでなく、異なる文化や生活習慣を持つ人々が訪れていた可能性があるのです。

外国から来た人々を受け入れるには、食事や宿泊だけでなく、生活のための施設も必要になります。

ここから、秋田城の役割が単なる軍事拠点ではなかったことを、具体的な遺構から考えることができます。

秋田城には、誰が集まっていたのか

ここまで見てきた記録を整理すると、秋田城にはさまざまな立場の人々が関わっていたことが分かります。

朝廷から派遣された役人。

城を守る兵士。

周辺地域に暮らす人々。

北海道から毛皮などを運んでくる人々。

都の有力者のために品物を買い付ける人々。

さらに、大陸との交流に関わる人々が訪れていた可能性もあります。

それぞれ、目的は異なります。

政治的な命令を伝えるために来た人。

交易のために来た人。

軍事的な任務を担う人。

生活に必要な品物を求める人。

こうした人々が、同じ拠点で接触していました。

そして、その活動を支えるには、多くの仕事が必要だったはずです。

食料を準備する。

宿泊場所を整える。

物資を保管する。

必要な連絡を届ける。

船や陸路で荷物を運ぶ。

こうした仕事の存在を考えると、秋田城は軍事と行政だけでなく、交通や交易の結節点でもあったことが見えてきます。

国家は交易を生み出したのか

ここで、今回の歴史探訪の中心となる問いへ戻りましょう。

秋田城ができたことで、北方交易は始まったのでしょうか。

それ以前から、北海道と本州の間には交流が存在していました。

縄文時代には、海峡を越えて石材などが移動していました。

続縄文文化や擦文文化の時代にも、地域間の交流が続いていました。

つまり、北方交易そのものは、国家が秋田城を設ける以前から存在していたのです。

しかし、秋田城が設置されたことで、交易の形には新しい要素が加わりました。

朝廷へ品物を納める。

国家が饗応を行う。

交易の条件や順序を管理する。

私的な取引を禁止する。

こうした制度が、北方の人々との関係に組み込まれていきました。

ここで重要なのは、国家が交易をすべて新しくつくったわけではないということです。

一方で、既存の交流をそのまま利用しただけでもありません。

国家による管理や貢納の仕組みが加わることで、交易のあり方そのものが変化していったのです。

人々が築いてきた海の道に、政治的な権力が関わることで、新しい交易の仕組みが生まれたのです。

日本海の港は、時代とともに移っていった

秋田城の北方交易は、その後も同じ形で続いたのでしょうか。

実際には、日本海の交易拠点は時代とともに変化していきました。

北海道大学の研究では、8世紀から9世紀には秋田城が重要な拠点となり、その後、10世紀から12世紀には津軽外ヶ浜が北方交易の拠点として重要になったと考えられています。

さらに13世紀以降には、津軽の十三湊が大きな役割を担うようになります。

ここで、これまでの歴史探訪とつながります。

十三湊を拠点に交易を行った安藤氏。

津軽から北海道へ渡った人々。

そして、能登の珠洲焼を北海道方面へ運ぶ交易網。

それらは、秋田城の時代より後の出来事です。

同じ制度がそのまま続いていたわけではありません。

しかし、北方の品物を求める本州側の人々と、本州の品物を求める北海道側の人々との交流は、形を変えながら続いていきました。

港の位置が変わる。

支配する勢力が変わる。

取引する品物が変わる。

それでも、海を通じて人々が結びつく関係は、長い歴史の中で繰り返し現れます。

ここに、日本海の歴史を考えるうえで重要な特徴があるように思います。

越と秋田城は、どのようにつながっていたのか

では、越の人々は、この北方交易とどのように関わっていたのでしょうか。

古代の越は、日本海側の交通と物資輸送に関係する重要な地域でした。

越前。

加賀。

能登。

越中。

越後。

それぞれの地域には港や河川があり、物資の輸送に利用されていました。

また、国家が東北地方の城柵を維持するためには、食料や物資を運ぶ必要がありました。

802年には、越後国から米を、佐渡国から塩を雄勝城へ送ることが命じられています。

これは、北陸と出羽の間に国家の物資輸送の仕組みが存在していたことを示しています。

ただし、秋田城で取引された毛皮や鉄製品のすべてが、越を経由していたと考えることはできません。

品物によって、移動する経路は異なっていたでしょう。

それでも、日本海側の広い交通網の中で、越が北方の政治や物流と結びついていたことは重要です。

ここで、以前取り上げた阿倍比羅夫の北方遠征を思い出してください。

7世紀には、越を拠点とする人物が北方へ向かったことが記録されています。

8世紀から9世紀には、越や佐渡の物資が東北地方の軍事拠点を支える仕組みに組み込まれていました。

越は、朝廷が北方へ働きかける際に、人と物資を動かす重要な地域でもあったのです。

毛皮一枚の向こうにいた人々

最後に、802年の禁止令へ戻りましょう。

朝廷が問題にしたのは、良質な毛皮を貴族たちが先に買ってしまうことでした。

しかし、その毛皮は、最初から秋田城に存在していたわけではありません。

遠く離れた北方の土地で動物を捕獲した人々がいました。

皮を加工する人々がいました。

それを集める人々がいました。

船に積み、海を渡って運ぶ人々がいました。

そして、秋田城などで交換する人々がいました。

都の貴族たちが欲しがった毛皮一枚の背後には、多くの仕事が存在していたのです。

国家は、その毛皮を管理しようとしました。

しかし、国家の命令だけで毛皮が手に入るわけではありません。

動物の生態を知る人。

狩猟の技術を持つ人。

皮を加工する人。

航海の知識を持つ人。

そして、異なる地域の人々と関係を築く人。

こうした人々がいなければ、交易は成立しません。

歴史書には、朝廷の命令が残されています。

しかし、その命令の対象となった毛皮を、実際に生産し、運んでいた人々の名前はほとんど残されていません。

秋田城の北方交易は、国家の歴史であると同時に、海を越えて働いた人々の歴史でもあったのです。

そして、この交易を通じて、本州から北海道へ鉄製品が運ばれました。

その鉄は、北海道の人々の暮らしや生産活動に、どのような変化をもたらしたのでしょうか。

道具が変われば、仕事の方法も変わります。

仕事の方法が変われば、得られる資源や、社会の仕組みまで変化する可能性があります。

次の歴史探訪では、北方社会に広がっていった鉄製品を取り上げます。

鉄という新しい材料は、北海道の人々の暮らしをどのように変えていったのでしょうか。

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