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阿倍比羅夫の北征――180艘の軍船は、なぜ日本海を北上したのか

2015.10.10

――越から津軽、渡嶋へ。古代の記録に残された北方遠征と、その向こうにいた人々

西暦658年。

日本海を、大きな船団が北へ向かっていました。

『日本書紀』によれば、その数は180艘。

船団を率いていたのは、阿倍比羅夫(あべのひらふ)と考えられる人物です。

彼は、越国守として北方への遠征に関わったことが記録されています。

向かった先は、現在の秋田県から青森県、さらに北海道方面へとつながる地域でした。

ただし、180艘という数字や航海の詳しい経路については、記録をそのまま実際の船団の姿と断定することはできません。

それでも、7世紀の半ばに、朝廷が日本海を利用して北方への働きかけを強めていたことは重要です。

ここで考えたいことがあります。

なぜ朝廷は、大きな船団を北へ向かわせたのでしょうか。

そこには何があったのでしょうか。

そして、阿倍比羅夫が向かった先には、どのような人々が暮らしていたのでしょうか。

今回の歴史探訪では、『日本書紀』に残された658年から660年の記録を手がかりに、越と北方世界の関係を追いかけます。

遠征の舞台となった、古代の越

阿倍比羅夫の遠征を考える前に、当時の越がどのような場所だったのかを見てみましょう。

古代の越は、現在の北陸地方から新潟県方面にかけての広い地域に関わる名称です。

日本海に面し、多くの河川が流れ、山々に囲まれた土地でもありました。

海沿いには人々の暮らしがあり、川を利用すれば内陸へ進むことができます。

こうした地理的な条件は、物資を運ぶうえで重要でした。

越では、縄文時代から翡翠などの石材が遠くの地域へ運ばれていました。

また、時代が進むにつれて、農耕や鉄製品の利用など、さまざまな技術が広がっていきます。

日本海を通じた人々の交流も、長い時間をかけて続いていました。

つまり、朝廷が北方へ船を送り始めたとき、そこにはすでに人々が利用してきた海の道が存在していたのです。

朝廷が日本海の航路を一からつくり出したわけではありません。

以前から存在していた交通や交流の仕組みを、政治的・軍事的な目的にも利用するようになったと考えられます。

では、その動きはいつ頃から本格化したのでしょうか。

647年、渟足柵が設けられた

阿倍比羅夫の遠征より11年前。

647年、『日本書紀』には越の地域に渟足柵(ぬたりのき)が設けられたという記録があります。

翌648年には、磐舟柵(いわふねのき)が設置されたと記されています。

いずれも現在の新潟県域に関わると考えられる拠点です。

渟足柵や磐舟柵については、正確な所在地が確定していません。

しかし、この時期に朝廷が越の北方地域へ政治的な影響力を広げようとしていたことを示す重要な記録です。

磐舟柵の記事には、越や信濃の人々を移住させたことも記されています。

これは、単に兵士を配置したというだけではありません。

人々を移動させ、拠点を維持し、地域を管理しようとする動きでもありました。

ここで注目したいのは、朝廷が拠点を設ける以前から、その地域に人々が暮らしていたことです。

柵ができたことで、初めて人々の生活が始まったわけではありません。

すでに存在した地域社会に、朝廷の新しい政治的な仕組みが加わったのです。

そして、それから約10年後、阿倍比羅夫の遠征が記録されます。

658年、180艘の船団が北へ向かった

『日本書紀』斉明天皇4年4月の記事には、阿陪臣が180艘の船団を率いて蝦夷を討ったと記されています。

船団の接近を知った齶田(あきた)と渟代(ぬしろ)の人々は、服属を申し出たとされています。

齶田は現在の秋田地方、渟代は能代地方に関わる地名と考えられています。

そして、齶田の有力者として恩荷(おが)という人物が登場します。

ここで興味深いのが、恩荷の言葉です。

『日本書紀』によれば、恩荷は、自分たちが弓矢を持っているのは朝廷の軍と戦うためではなく、肉を食べる生活に必要だからだと説明しました。

さらに、朝廷に対して敵意を持たないことを誓ったと記されています。

この記述は、朝廷側が残したものです。

したがって、恩荷が実際に一字一句そのとおりに話したと断定することはできません。

それでも、非常に興味深い内容です。

朝廷の軍が現れたとき、地域の指導者は武器を持つ理由を説明し、自分たちの立場を伝えようとしたのです。

ここには、武力だけではなく、交渉の場面が記録されています。

恩荷は、何を守ろうとしていたのか

恩荷という人物について、私たちが知ることのできる情報は限られています。

しかし、記録された行動から、いくつかの疑問が生まれます。

なぜ、朝廷の軍と戦わなかったのでしょうか。

船団の規模を見て、抵抗が難しいと判断したのでしょうか。

それとも、以前から朝廷側との関係があり、交渉することを選んだのでしょうか。

あるいは、地域の人々の暮らしを守るため、武力衝突を避けようとしたのでしょうか。

どの理由が決定的だったのかは分かりません。

ただし、『日本書紀』には、朝廷が恩荷に位を与え、渟代と津軽の郡領に定めたと記されています。

この出来事を、単に朝廷が勝利した話として読むこともできます。

しかし、別の見方もできるでしょう。

朝廷は、地域に影響力を持つ人物を利用しなければ、その土地を管理することが難しかったのではないでしょうか。

遠くから船団を派遣することと、その土地で継続的に政治を行うことは同じではありません。

地形を知る人々。

地域の人間関係を知る人々。

物資を集める方法を知る人々。

そうした人々の協力がなければ、遠方の土地を管理することは難しいはずです。

恩荷の記録には、朝廷の勢力拡大と、地域の有力者を通じた政治的な関係の形成という、二つの側面が見えてきます。

有間浜には、渡嶋の人々が集まっていた

658年の記録は、秋田や能代だけでは終わりません。

阿倍比羅夫の船団は、その後、有間浜という場所へ向かったとされています。

そこで渡嶋(わたりしま)の蝦夷を集め、饗応したというのです。

饗応とは、食事や品物などを提供して人々をもてなすことです。

古代の政治的な関係では、このような行為が重要な意味を持つことがありました。

しかし、ここで疑問が生まれます。

渡嶋とは、どこだったのでしょうか。

北海道を指すという見方がありますが、古代の記録に登場する地名を現在の地図上に正確に当てはめることは簡単ではありません。

有間浜の所在地についても、津軽方面などの説があります。

ただ、北方の人々が集まり、朝廷側の船団と接触したという記録は重要です。

それだけの人々が集まるためには、移動するための道や、連絡を取り合う関係が必要だったでしょう。

朝廷の船団が到着する以前から、北方の地域には人々を結びつける交通と交流の仕組みがあったと考えられるのです。

659年、再び北方へ

翌659年。

『日本書紀』には、阿倍臣が再び180艘の船団を率いて北方へ向かったという記録があります。

この年の記事には、秋田や能代、津軽などの人々との関係が、より具体的な数字とともに記されています。

また、胆振鉏(いぶりさへ)という地名も登場します。

この地名の所在地については、さまざまな説があります。

さらに、後方羊蹄(しりべし)という場所に政治的な拠点を設けたとする記録もあります。

ただし、これらの地名が現在のどの地域に当たるのか、すべてが確定しているわけではありません。

ここで注目したいのは、朝廷側の活動が単発の航海ではなかったということです。

658年。

659年。

そして、翌660年。

『日本書紀』には、連続する北方遠征が記録されています。

もちろん、記録の年代や内容には検討すべき点があり、三年間の出来事がすべて記述どおりに起きたと断定することはできません。

それでも、7世紀半ばに朝廷が北方地域との政治的な関係を強めようとしていたことは、重要な歴史的動きといえます。

660年、船団はさらに北へ向かったのか

660年には、200艘の船団を率いて粛慎(みしはせ・あしはせ)を討ったという記録が登場します。

ここで、これまでとは異なる名前が現れます。

粛慎です。

古代中国の史料にも、粛慎という名称が登場します。

しかし、『日本書紀』に記された粛慎が、中国の記録に登場する集団と同じ人々だったのかは、はっきりしていません。

北方のどの地域に暮らしていた人々なのか。

どのような言語を使っていたのか。

どの文化と関係していたのか。

現在でも議論があります。

そして、660年の記事には、さらに興味深い場面が記録されています。

大河のほとりに集まった千人の人々

『日本書紀』によれば、阿倍臣は陸奥の蝦夷を船に乗せて、大きな川の近くへ向かいました。

そこには、渡嶋の蝦夷が千人余り集まっていたとされています。

彼らは、粛慎の船団がやって来て、自分たちを襲おうとしていると訴えました。

そして、朝廷側に助けを求めたというのです。

この場面は、従来の征討という言葉だけでは説明しきれないものがあります。

朝廷の軍が北方の人々を一方的に攻撃したという話ではありません。

北方の人々同士にも対立があり、その一方が朝廷の軍事力を利用しようとした可能性が読み取れるのです。

ただし、これはあくまで朝廷側の記録です。

渡嶋の人々が何を考え、どのような事情で助けを求めたのか、その全体像は分かりません。

それでも、北方世界が一つのまとまった勢力ではなかったことを考える手がかりになります。

地域ごとに異なる集団が暮らし、交易し、ときには争っていたのでしょう。

武器と布を置いた、不思議な交渉

660年の記事には、非常に印象的な出来事があります。

阿倍臣は粛慎の人々と接触しようとし、海辺に布や武器、鉄などを置きました。

すると、二人の老人が現れました。

老人たちは品物を確かめ、布を手に取って船へ戻りました。

ところが、その後、布を元の場所へ戻し、再び船へ帰ったというのです。

この行動には、どのような意味があったのでしょうか。

交換の条件が合わなかったのでしょうか。

敵意を示すためだったのでしょうか。

それとも、互いの言葉や習慣が異なり、交渉が成立しなかったのでしょうか。

理由は分かりません。

しかし、ここには古代の異文化間交流を考えるうえで、重要な場面が残されています。

武器を持った船団同士が対峙していても、最初から戦闘だけが行われたわけではありません。

品物を置き、相手の反応を見るという行為が記録されているのです。

言葉が通じなかったとしても、品物を介して意思を伝えようとする方法が存在したのかもしれません。

そして、この交渉は成功せず、最終的には戦いへと発展したと伝えられています。

粛慎の人々は、どこから来たのか

粛慎という名前は、北方世界の歴史を考えるうえで大きな謎を残しています。

中国の古代史料では、粛慎は大陸東北部に関わる名称として登場します。

一方、『日本書紀』では、日本列島の北方に現れた人々を表す名称として使われています。

しかし、両者の関係は簡単ではありません。

古代の日本側が、中国の文献に登場する名称を借りて、北方の未知の人々を表した可能性もあります。

また、北海道のオホーツク文化との関係を考える研究もあります。

オホーツク文化は、北海道のオホーツク海沿岸や樺太、千島列島などに関わる文化です。

海獣や魚類を利用した生活、独特の住居や土器、クマに関する儀礼などが知られています。

しかし、考古学的に確認される文化と、歴史書に登場する民族名を直接結びつけるには慎重さが必要です。

粛慎とは誰だったのかという疑問は、まだ完全には解明されていません。

だからこそ、考古学と文献史学の両方から研究する価値があるのです。

生きたヒグマと70枚の毛皮

阿倍比羅夫の遠征記録には、もう一つ興味深い話があります。

658年の記事には、粛慎を討った後、生きたヒグマ2頭とヒグマの皮70枚を献上したと記されています。

ここで注目したいのは、毛皮の数です。

70枚という量は、単に一度の狩猟によって偶然手に入れたものだったのでしょうか。

それとも、北方の人々が集め、保管し、交換していた品物だったのでしょうか。

記録だけで、その入手経路を確定することはできません。

しかし、毛皮が政治的な贈り物として価値を持っていたことは読み取れます。

北方の人々にとって、毛皮は寒冷地での生活に関わる重要な資源でした。

一方、朝廷側では、遠方からもたらされる珍しい品物として価値があったのでしょう。

この出来事から、北方の物資が古代の政治的な交流にも利用されていたことが見えてきます。

そして、毛皮が遠くへ運ばれるためには、それを採る人、集める人、運ぶ人が必要です。

歴史書には献上した人物の名前が残ります。

しかし、毛皮を実際に手に入れた人々の名前は分かりません。

ここにも、記録された政治の歴史と、記録されなかった人々の活動の違いがあります。

180艘の軍船を、誰が動かしていたのか

ここで、最初の船団へ戻ってみましょう。

180艘。

あるいは200艘。

仮に『日本書紀』の記録に近い規模の船団が動いていたとすれば、それを維持するには大きな準備が必要だったはずです。

船を建造し、修理する人々。

木材を用意する人々。

帆や縄を準備する人々。

食料や水を集める人々。

航海に必要な知識を持つ人々。

そして、実際に船を操る人々。

こうした人々がいなければ、船団は動きません。

さらに、日本海には季節によって厳しい風や波があります。

長距離を航海するためには、航路や寄港地、天候についての知識が必要です。

では、それらの知識は、朝廷の命令が出されてから突然生まれたのでしょうか。

そうではなかったでしょう。

古くから海を利用していた人々の経験が、何らかの形で生かされたと考えるのが自然です。

ただし、阿倍比羅夫の船団に具体的にどの地域の船乗りが参加したのか、史料から十分に確認することはできません。

それでも、国家の遠征を実現するためには、地域社会が蓄積してきた技術や経験が必要だったという視点は重要です。

歴史書では将軍の名前が残りますが、その船を実際に動かした人々もまた、遠征を支えていたのです。

なぜ、朝廷は北方へ進出したのか

では、最も大きな疑問に戻りましょう。

なぜ朝廷は、日本海を北上する遠征を行ったのでしょうか。

考えられる背景はいくつかあります。

まず、政治的な影響力の拡大です。

朝廷は7世紀に、中央集権的な国家体制を整えようとしていました。

地域の有力者を朝廷の秩序に組み込み、支配の範囲を広げていくことは、その動きの一部と考えられます。

また、北方の人々との外交的な関係や、物資の獲得も重要だった可能性があります。

毛皮など、北方からもたらされる品物には価値がありました。

一方で、遠征の時期は、朝鮮半島や中国大陸との関係が緊張していた時代でもあります。

国家の政治的な権威を示し、周辺地域との関係を整えることにも意味があったかもしれません。

ただし、これらの理由のうち、何が遠征の決定的な目的だったのかを一つに決めることはできません。

大切なのは、軍事、政治、外交、交易が、必ずしも別々の活動ではなかったということです。

遠征には軍船が使われました。

しかし、その記録には戦闘だけでなく、交渉、饗応、位の授与、贈り物なども登場します。

阿倍比羅夫の北征は、単なる軍事行動だけでは説明しきれない、北方世界との政治的な接触だったのです。

日本海の向こうには、別の世界が広がっていた

これまでの歴史探訪では、北海道と本州、越と東北、さらに樺太や大陸との交流を見てきました。

その交流は、阿倍比羅夫の時代に突然始まったわけではありません。

北方の人々には、それぞれの暮らしがありました。

海を渡る技術を持つ人々がいました。

毛皮や海産物を集め、遠くの地域と交換する人々がいました。

そして、地域ごとに異なる政治的な関係も存在していたでしょう。

朝廷の遠征は、そうした世界に外部から働きかけるものでした。

その結果、朝廷と協力する人々も現れました。

一方で、対立する人々もいました。

また、朝廷の船団を利用して、別の集団との争いを有利に進めようとした人々がいた可能性もあります。

ここで、古代の北方社会を、朝廷に従うか従わないかという二つの立場だけで考えることはできません。

それぞれの地域の人々には、それぞれの事情があったはずです。

朝廷の記録だけでは、そのすべてを知ることはできません。

遠征の後、日本海の交流はどう変わったのか

阿倍比羅夫の北征から約60年後の720年、『日本書紀』が完成しました。

そこには、7世紀半ばの北方遠征が国家の歴史として記録されました。

しかし、その記録が残されたからといって、北方の人々の歴史がすべて分かるわけではありません。

遠征を受け入れた地域では、その後どのような関係が続いたのでしょうか。

朝廷から位を与えられた有力者たちは、地域でどのような役割を果たしたのでしょうか。

北方の交易は、どのように変化していったのでしょうか。

これらの問題は、その後の城柵の設置や、東北地方の考古学的な資料とあわせて考える必要があります。

また、朝廷の政治的な勢力が広がっても、北海道や日本海沿岸の人々の交流が消えたわけではありません。

むしろ、後の時代にも、北方の海産物や毛皮、鉄製品、陶磁器などが広い地域を移動していました。

政治的な支配の形は変わっても、海を通じた交流は続いていったのです。

越は、北方世界への入口だったのか

最後に、越の役割をもう一度考えてみましょう。

越は、日本海を通じて北方へ向かううえで重要な位置にありました。

しかし、単に朝廷が北方へ進出するための通過点だったのでしょうか。

そこには、それ以前から海を利用して暮らしていた人々がいました。

船を動かす技術がありました。

周辺地域との交流がありました。

そして、物資を生産し、集め、運ぶための仕組みがあったはずです。

阿倍比羅夫の遠征を支えたものを考えるとき、朝廷の政治的な判断だけでなく、越の地域社会が持っていた力にも目を向ける必要があります。

国家の命令だけで、船が海を渡るわけではありません。

その命令を実現できる技術や経験が、人々の中に蓄積されていなければならないのです。

越の歴史を考えるとき、本当に重要なのは、朝廷が何を命じたかだけではなく、その土地の人々が何を可能にしていたのかという視点ではないでしょうか。

そして、北方へ向かった船団が接触した人々の中には、現在も正体が明らかになっていない集団がいました。

粛慎です。

彼らは、どこから来たのでしょうか。

北海道のオホーツク文化と関係していたのでしょうか。

それとも、さらに遠い樺太や大陸の人々だったのでしょうか。

次の歴史探訪では、『日本書紀』に残された粛慎という名称と、北海道・樺太・アムール川流域に広がっていた古代の交流世界を追いかけます。

日本海の北には、朝廷の記録だけでは捉えきれない、もう一つの広大な歴史が存在していたのです。

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