蝦夷とは誰だったのか――朝廷が名づけた人々と、歴史から消えた本当の姿
――同じ土地に暮らしていた人々が、なぜ突然「異なる人々」と呼ばれるようになったのか
今から1300年以上前。
現在の東北地方には、多くの人々が暮らしていました。
川の近くには集落があり、山には狩猟のために出かける人々がいました。
田畑を耕す人。
馬を育てる人。
魚を捕る人。
鉄の道具を使ってものをつくる人。
そして、遠く離れた土地と品物を交換する人々。
それぞれの地域には、それぞれの暮らしがありました。
ところが、古代の歴史書には、これらの人々をまとめて表す名前が登場します。
「蝦夷(えみし)」です。
歴史の教科書では、朝廷の北方進出に抵抗した人々として紹介されることがあります。
しかし、ここで一つの疑問が生まれます。
蝦夷と呼ばれた人々は、本当に一つの民族、一つの集団だったのでしょうか。
そして、彼ら自身も、自分たちを蝦夷と呼んでいたのでしょうか。
この疑問を調べていくと、古代の日本列島をどのように理解するかという、大きな問題が見えてきます。
蝦夷という名前は、誰がつけたのか
古代の記録に登場する蝦夷という言葉。
この名称は、主としてヤマト王権や後の律令国家が、自らの支配の外側にいる人々を表すために使ったものでした。
つまり、そこに暮らす人々自身が、共通して名乗っていた名称とは確認されていないのです。
ここで重要なのが、古代中国から伝わった華夷思想という考え方です。
華夷思想では、自分たちの政治や文化を中心に置き、その外側にいる人々を異なる存在として捉えます。
古代日本の朝廷も、こうした考え方の影響を受けていました。
朝廷の支配が及ぶ地域と、まだ直接支配していない地域。
その境界を考えるとき、蝦夷という呼び名が使われたのです。
しかし、政治的な支配の内側と外側を区別することと、そこに暮らす人々の民族や文化を明らかにすることは、同じではありません。
朝廷に従っていないという理由だけで、異なる地域の人々が一つの名前で呼ばれていた可能性があるのです。
ここを理解しないまま歴史書を読むと、最初から蝦夷という一つのまとまった民族が存在していたように見えてしまいます。
蝦夷の住む地域は、時代によって変わっていた
さらに興味深いことがあります。
蝦夷と呼ばれる人々が暮らす地域は、時代によって変化していました。
古い時代には、現在の関東地方や北陸地方に近い地域の人々も、王権の外側にいる存在として捉えられていました。
ところが、朝廷の政治的な勢力が東や北へ広がるにつれて、蝦夷と呼ばれる地域も北へ移っていきます。
ある時代には朝廷の外側とされた土地が、後の時代には朝廷の行政制度に組み込まれる。
すると、その土地に暮らす人々の位置づけも変わります。
では、その間に住民がすべて入れ替わったのでしょうか。
必ずしも、そうではありません。
同じ地域に暮らしていた人々が、政治的な支配関係の変化によって、以前とは異なる位置づけを与えられることもあったのです。
ここに、蝦夷という言葉の特徴があります。
人々そのものが突然変わったのではなく、支配する側の見方や分類が変わった可能性があるのです。
これは、歴史書に残された名称を考えるうえで、とても重要な問題です。
実際の暮らしは、朝廷の人々と違っていたのか
では、蝦夷と呼ばれた人々は、どのような暮らしをしていたのでしょうか。
東北歴史博物館では、古代の蝦夷と律令国家の関係について、考古学的な資料をもとに研究成果を紹介しています。
そこから分かってきたのは、単純に異なる文化として区別できない実態です。
蝦夷と呼ばれた地域でも、農耕が行われていました。
鉄製の道具も使われていました。
土器をつくり、集落を営み、周囲の地域と交流していました。
朝廷の支配地域と共通する生活文化もあったのです。
一方で、墓のつくり方や葬送に関する習慣などには、地域独自の特徴が残されていました。
つまり、すべてが同じだったわけでも、すべてが異なっていたわけでもありません。
共通する文化があり、異なる文化もある。
交流によって新しいものを受け入れながら、地域固有の習慣も守られていた。
そのような社会が存在していたと考えられます。
ここで疑問が生まれます。
生活文化に多くの共通点があったにもかかわらず、なぜ朝廷は彼らを異なる人々として扱ったのでしょうか。
その理由を考えるには、文化だけでなく、政治的な支配関係にも目を向ける必要があります。
蝦夷の中にも、さまざまな人々がいた
『日本書紀』には、蝦夷をいくつかの種類に分けて説明した記録があります。
659年の記事では、唐の皇帝に対する説明の中で、熟蝦夷、荒蝦夷、都加留という区分が登場します。
これは、朝廷との関係や地理的な位置をもとにした分類と考えられています。
ここで注目したいのは、朝廷の記録そのものが、蝦夷を均一な集団として扱っていないことです。
朝廷と関係を持つ人々。
距離を置いていた人々。
さらに北方に暮らす人々。
それぞれの立場は異なっていました。
そして、同じ地域の中でも、朝廷との関係に対する考え方は一つではなかったでしょう。
交易を重視する人々もいたはずです。
政治的な協力を選ぶ人々もいたでしょう。
一方で、外部からの支配を受け入れない人々もいました。
同じ名前で呼ばれていても、その中には異なる考え方や利害を持つ人々がいたのです。
一つの名称から、一つの意思を持つ集団を想像してしまうと、実際の社会の複雑さを見失うことになります。
蝦夷とアイヌは、同じ人々だったのか
ここで、もう一つの重要な問題があります。
古代の蝦夷と、後の時代に北海道を中心に暮らしていたアイヌの人々との関係です。
かつては、蝦夷をそのままアイヌ民族と結びつける説明も行われてきました。
しかし、現在の研究では、この問題を単純に同一視することはできないと考えられています。
古代の蝦夷という呼び名は、特定の民族だけを示すものではなかったからです。
一方で、東北地方の北部には、アイヌ語に由来すると考えられる地名が残されています。
考古学的にも、北海道と東北北部の間に長い交流があったことが分かっています。
そのため、蝦夷と呼ばれた人々の中に、後のアイヌ民族につながる人々が含まれていた可能性は重要です。
しかし、東北各地の蝦夷をすべて同じ祖先や同じ言語を持つ人々と考えることはできません。
ここで大切なのは、二つの問題を分けることです。
蝦夷とは、誰がつけた名称だったのか。
そして、その名称で呼ばれた人々の実際の祖先や文化は、どのようなものだったのか。
名前の意味を調べることと、人々の起源を調べることは、別の研究なのです。
越にも、蝦夷と呼ばれた人々がいた
ここで、今回の歴史探訪の中心である越へ戻りましょう。
古代の越は、現在の福井県から石川県、富山県、新潟県にかけての広い地域に関わる歴史的な名称です。
ただし、その範囲や行政上の位置づけは時代によって異なります。
この日本海沿岸の地域は、古くから北方との交通に関わっていました。
『日本書紀』には、7世紀半ばに越の地域へ渟足柵や磐舟柵が設置されたとする記録があります。
渟足柵は647年。
磐舟柵は648年。
いずれも現在の新潟県域に関わると考えられる古代の拠点です。
ただし、正確な所在地は確定していません。
では、なぜ朝廷はこの地域に柵を設けたのでしょうか。
古代の記録には、蝦夷に備えるためだったという趣旨の説明があります。
しかし、ここで考えたいことがあります。
朝廷が柵をつくる以前、その地域に人々は暮らしていなかったのでしょうか。
もちろん、そうではありません。
越には、それ以前から集落があり、農耕や漁労、交易を営む人々が暮らしていました。
日本海を利用した交流も存在していました。
そこへ、朝廷の政治的・軍事的な拠点が設置されたのです。
人々が暮らしていた土地に、後から朝廷の支配の仕組みが持ち込まれた。
この順序は、越の歴史を考えるときに見落とせません。
柵は、何のためにつくられたのか
古代の柵という言葉からは、敵の侵入を防ぐための施設を想像するかもしれません。
実際、城柵には軍事的な役割がありました。
しかし、機能はそれだけではありません。
地域によっては、行政の拠点となり、物資の集積や人々の移動、周辺社会との交渉にも関わっていました。
柵を維持するには、人が必要です。
食料も必要です。
建物をつくる材料や道具も必要になります。
それらを集めるためには、周囲の地域と関係を築かなければなりません。
一方で、そこに軍事的な力が置かれれば、地域社会との緊張が生まれることもあります。
ここで重要なのは、城柵が単に外敵を防ぐ施設だったのか、それとも朝廷の政治的な勢力を広げる拠点でもあったのかという問題です。
両方の役割を持っていた可能性があります。
ただし、個々の柵については、それぞれの史料と考古学的な証拠に基づいて考える必要があります。
そして、その拠点がつくられることで、周辺に暮らしていた人々の生活はどのように変化したのでしょうか。
この視点から歴史を読み直すと、城柵の意味も違って見えてきます。
朝廷に従わないことは、悪いことだったのか
古代の歴史書には、朝廷の命令に従わなかった人々を討伐する記録が登場します。
しかし、ここで立場を変えて考えてみましょう。
ある地域に、長く暮らしてきた人々がいたとします。
自分たちの土地があり、生活の方法があり、周囲の人々との交流関係がある。
そこへ、遠くの政治勢力が現れ、自分たちの決まりに従うよう求めたら、どうでしょうか。
従うことを選ぶ人もいるでしょう。
新しい政治的な関係から利益を得ようとする人もいるかもしれません。
一方で、それまでの暮らしや権限を守ろうとして、抵抗する人もいるはずです。
では、抵抗した人々は、単に戦いを好んでいたのでしょうか。
そうとは限りません。
土地を守ろうとしたのかもしれません。
地域の政治的な自立を維持したかったのかもしれません。
交易の条件を自分たちで決めたかった可能性もあります。
もちろん、それぞれの争いの原因を一つに決めることはできません。
しかし、朝廷の側が記録した「反乱」や「征討」という言葉を、そのまま当事者全員の視点だと考えるのは適切ではないでしょう。
誰が記録を書いたのかによって、同じ出来事の意味は変わって見えるのです。
戦っていただけではない、蝦夷の人々
古代の記録には、朝廷と蝦夷の間で起きた戦いが残されています。
しかし、戦争だけが両者の関係ではありませんでした。
朝廷へ使者を送る人々がいました。
品物を献上する人々もいました。
朝廷から位や物資を与えられた人々もいました。
政治的な交渉があり、交易があり、さまざまな交流が存在していたのです。
発掘調査でも、東北地方と朝廷の支配地域との間に、物資や技術の交流があったことが確認されています。
ここで考えたいことがあります。
人々が日常的に交流していたなら、なぜ歴史書では戦いが目立つのでしょうか。
それは、古代の国家が残した記録の性格とも関係しています。
国家にとって重要な政治的事件や軍事行動は、記録に残されやすいものです。
しかし、毎日の小さな取引や、人々の何気ない交流は、詳しく記録されないことがあります。
船が到着する。
品物を交換する。
知識を教え合う。
別の土地へ移住する。
そうした活動は、長い歴史の中で繰り返されてきたはずです。
けれども、その一つひとつが歴史書に残るわけではありません。
だからこそ、考古学が重要になります。
土の中から見えてくる、もう一つの歴史
発掘調査では、歴史書に記録されなかった人々の暮らしを知る手がかりが見つかります。
土器。
鉄製品。
住居跡。
墓。
農耕や生産活動の痕跡。
それらを調べることで、どのような生活が営まれていたのかを考えることができます。
異なる地域で似た道具が見つかれば、技術や物資が移動した可能性があります。
同じ時代に異なる埋葬方法が確認されれば、地域ごとの文化や習慣の違いを考える手がかりになります。
ただし、品物が移動したことと、人間そのものが移住したことは同じではありません。
交易によって道具だけが運ばれた可能性もあります。
職人が移り住み、技術を伝えた可能性もあります。
現地の人々が外部の技術を学び、自分たちでつくった場合もあるでしょう。
こうした違いを一つずつ調べることで、古代の社会が少しずつ見えてきます。
歴史書が支配者の行動を伝える一方で、遺跡はそこで暮らした人々の営みを伝えてくれるのです。
蝦夷という名前だけでは、人々の歴史は分からない
ここまで調べてくると、最初の疑問へ戻ります。
蝦夷とは、誰だったのでしょうか。
この問いに対して、たった一つの民族名を答えとして示すことは難しいのです。
朝廷の支配の外側にいた人々。
朝廷と交易していた人々。
朝廷に協力した人々。
朝廷の進出に抵抗した人々。
異なる言語や文化を持っていた可能性のある人々。
そして、朝廷の支配地域の住民と多くの生活文化を共有していた人々。
そうした多様な人々が、蝦夷という名称で記録されていました。
ここで、歴史を調べる際に大切なことが見えてきます。
それは、後からつけられた名称だけで、人々の実際の姿を決めつけないことです。
蝦夷という言葉が記録に残っているからといって、そこに一つの統一された集団が存在したとは限りません。
また、朝廷に従った人々と抵抗した人々を、単純に異なる民族として区別することもできません。
政治的な立場の違いと、人々の起源や文化の違いは、同じではないのです。
越の人々は、どのような関係を築いていたのか
そして、この問題は越の歴史とも深く結びついています。
越は、日本海を通じて北方の人々と交流できる場所にありました。
古くから、海を渡り、川を利用し、山を越える交通路が存在していました。
その交通路を使って、さまざまな物資が移動しました。
人々も移動し、知識や技術も伝わっていったことでしょう。
しかし、朝廷の政治的な勢力が広がるにつれて、越は北方への進出を支える拠点としても重要になっていきます。
ここで、越に暮らす人々の立場も一様ではなかったはずです。
朝廷の活動に協力する人。
交易を続ける人。
周辺地域との関係を大切にする人。
新しい政治的な仕組みに組み込まれていく人。
それぞれが異なる事情の中で生きていたと考えられます。
越を一つの政治的な勢力として見るだけでは、こうした複雑な関係は見えてきません。
越に暮らしていた人々の起源は、一つだったのでしょうか。
周辺地域から移住してきた人々もいたのでしょうか。
北方の人々との間には、交易だけでなく、婚姻や移住による交流もあったのでしょうか。
これらは、さらに調べていく価値のある問題です。
名前を残した人と、名前を残されなかった人
最後に、もう一度考えてみたいことがあります。
古代の歴史書には、天皇や貴族、将軍など、多くの人物の名前が残されています。
しかし、東北や越で毎日の暮らしを営んでいた人々の名前は、ほとんど分かりません。
船をつくった人。
海を渡った人。
田畑を耕した人。
鉄の道具をつくった人。
遠くの土地へ移り住んだ人。
彼らにも、それぞれの家族があり、仕事があり、人生がありました。
その一人ひとりが、歴史を形づくっていたのです。
ところが、後の時代に残された記録では、彼らは蝦夷という一つの名前にまとめられてしまいました。
私たちが歴史を調べるとき、その名前だけを覚えて終わってしまえば、彼らの本当の姿は見えてきません。
大切なのは、その名前の向こうに、どのような人々が暮らしていたのかを考えることではないでしょうか。
歴史に残された名前が、その人々自身の名前だったとは限りません。
支配者がつけた名前の向こうには、異なる土地で、それぞれの暮らしを築いてきた多くの人々がいたのです。
そして、その人々が暮らしていた土地へ、朝廷はなぜ軍船を送り、城柵を築いていったのでしょうか。
次の歴史探訪では、7世紀の日本海を北上した阿倍比羅夫の遠征を取り上げます。
遠征の記録に登場する津軽、渡嶋、そして粛慎。
そこには、古代の越と北方世界の関係を考えるための、さらに大きな謎が残されています。