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交易は、なぜ戦争に変わったのか――北海道で起きた1457年の戦いと、奪われていく交流の自由

2015.10.08

――一本の小刀をめぐる争いから、日本海の歴史が大きく動き始めた

1456年、現在の北海道函館市付近。

一人のアイヌの若者が、和人の鍛冶職人に小刀の製作を依頼しました。

小刀は、日々の暮らしに欠かせない道具です。

木を削る。

魚や獣を解体する。

必要なものを加工する。

北海道の人々にとって、鉄製の刃物は暮らしを支える重要な道具でした。

ところが、完成した小刀をめぐって争いが起こります。

刃物の出来具合と価格について、注文した側と職人の間で意見が対立したのです。

そして、和人の鍛冶職人がアイヌの若者を殺害するという事件が起きました。

この出来事は、翌1457年に起きた大規模な戦いの発端として伝えられています。

戦いを率いた人物の名は、コシャマイン。

アイヌの人々は、北海道南部に築かれていた和人の拠点を次々と攻撃しました。

長く交易を続けてきた人々の間で、なぜこれほど大きな戦いが起きたのでしょうか。

そして、一本の小刀をめぐる事件が、なぜ広い地域の人々を巻き込む争いへと発展したのでしょうか。

その背景を調べていくと、日本海を通じて築かれてきた交流関係が、政治的な支配へと変化していく歴史が見えてきます。

北海道は、もともと誰もいない土地ではなかった

まず、戦いが起きる以前の北海道を考えてみましょう。

現在の北海道には、縄文時代から長い人々の暮らしの歴史が残されています。

その後も、続縄文文化、擦文文化、オホーツク文化など、地域や時代によって異なる文化が発展しました。

北海道の人々は、海や川、森林から生活に必要なものを得ていました。

魚を捕る。

獣を狩る。

植物を採集する。

道具をつくる。

そして、他の地域の人々と品物を交換する。

北海道は、外部からやって来た人々によって初めて開かれた土地ではありません。

そこには、長い時間をかけて暮らしを築いてきた人々がいたのです。

また、北海道の人々は本州だけでなく、樺太や千島列島、アムール川流域などとも交流していました。

つまり、北海道は日本列島の北端として孤立していたのではなく、北東アジアへ続く交流世界の一部だったのです。

ここを出発点にしなければ、後に起きる争いの意味も変わってしまいます。

海を渡る人々は、何を求めていたのか

中世になると、本州から北海道へ渡る和人が増えていきます。

彼らが求めていたものの一つは、交易でした。

北海道からは、サケやコンブなどの海産物、毛皮などが運ばれます。

本州からは、鉄製品、陶磁器、漆器、米などが持ち込まれました。

特に鉄製品は重要でした。

鍋や小刀、さまざまな道具は、生活や生産活動の中で利用されていました。

一方、北海道の人々が持つ海産物や毛皮も、本州側にとって価値ある品々でした。

互いに必要なものが異なるからこそ、交換する理由が生まれます。

そして、交換を続けるためには、海を渡る人々の知識や技術が必要です。

津軽海峡は決して穏やかな海ではありません。

風や潮の流れを知り、航海の季節を判断し、船を動かす人々がいなければ、交易は成立しません。

ここで考えたいことがあります。

最初から、どちらか一方が相手を支配する必要があったのでしょうか。

必ずしも、そうではなかったはずです。

それぞれが必要なものを持ち、交換する相手として関わることは可能だったでしょう。

しかし、交易が盛んになるにつれて、その関係は少しずつ変化していきました。

交易相手だった人々が、土地に住み始める

本州から北海道へ渡る人々が増えると、交易だけでなく、現地に住み着く和人も現れました。

14世紀から15世紀にかけて、北海道南部には和人の拠点が築かれていきます。

その代表的なものが、道南十二館と呼ばれる館です。

館とは、単なる住居ではありません。

有力者が暮らし、周囲を守るための施設を備えた拠点でした。

交易のための施設であると同時に、政治的・軍事的な意味も持つ場所だったのです。

ここで、交易の仕組みに変化が生まれます。

船でやって来て品物を交換し、故郷へ帰る。

それとは異なり、土地に拠点を構え、そこに住み続ける。

この二つは、同じではありません。

拠点を維持するには、土地が必要です。

食料も必要です。

建物を建て、道を使い、人々の出入りを管理するようになります。

そこには、以前から暮らしていた人々がいました。

交易のために訪れることと、他の人々が暮らす土地に政治的な拠点を築くことは、まったく同じ意味ではないのです。

和人の勢力が広がるにつれて、アイヌの人々の生活領域が脅かされるようになりました。

交流によって結びついていた関係に、土地と権力をめぐる対立が入り込んできたのです。

1432年、津軽から渡ってきた一族

ここで、前回の歴史探訪とつながります。

1432年。

津軽の十三湊を拠点としていた安藤氏は、南部氏との争いに敗れ、北海道へ渡りました。

一度は十三湊へ戻りましたが、1442年には再び北海道へ退くことになります。

安藤氏は、もともと北海道方面との交易に関わっていた一族です。

北海道には、それ以前から和人の交易活動や居住が存在していました。

そこへ、津軽で政治的な力を持っていた一族が渡ってきたのです。

安藤氏の移動だけで道南の和人勢力が形成されたわけではありません。

しかし、津軽の政治的な争いと、北海道南部の動きが無関係ではなかったことは重要です。

津軽で敗れた勢力が北海道へ向かう。

北海道では和人の拠点が増えていく。

そして、そこには以前から暮らしていたアイヌの人々がいる。

海の向こうで起きた争いが、別の土地の社会にも影響を及ぼす。

日本海と津軽海峡を通じた交流網には、こうした側面もあったのです。

1456年、小刀をめぐる殺人事件

そして、1456年の事件が起きます。

現在の函館市付近にあった和人の鍛冶職人と、アイヌの若者との争いです。

伝承では、注文した小刀の品質や価格をめぐる口論が、殺人事件へ発展したとされています。

ただし、この事件の具体的な経緯は、後世に編纂された史料を通じて伝えられています。

そのため、細部をすべて確定した事実として扱うことはできません。

それでも、この事件が戦いの発端として伝えられていることには意味があります。

小刀は、単なる装飾品ではありません。

毎日の暮らしや仕事で使う道具です。

その製作や取引をめぐる争いが、命を奪う事件になった。

しかし、ここで疑問が生まれます。

なぜ、一人の若者が殺された事件から、北海道南部の広い範囲を巻き込む戦いが起きたのでしょうか。

もし、それ以前の関係が安定していたなら、事件の当事者間で解決する道もあったかもしれません。

ところが、翌年には各地の人々が立ち上がります。

そこには、一つの事件だけでは説明できない、積み重なった対立があったと考えられています。

1457年、コシャマインの戦い

1457年。

アイヌの指導者コシャマインのもとで、大規模な戦いが起きました。

アイヌ側は北海道南部の和人の館を次々と攻撃しました。

伝えられるところでは、十二館の多くが攻略され、最後まで残ったのは花沢館と茂別館の二つでした。

ここで注目したいのは、争いが一つの集落だけにとどまらなかったことです。

広い範囲の人々が戦いに参加したということは、それだけ多くの地域で緊張が高まっていた可能性があります。

本州から来た和人の拠点が増える。

交易関係が変化する。

土地の利用や人々の生活に影響が生まれる。

こうした状況が続くなかで、殺人事件が大きな争いの引き金になったのでしょう。

そして、戦いの中でコシャマイン父子は、和人側の武田信広によって討たれたと伝えられています。

しかし、それで対立そのものが解消されたわけではありません。

その後もアイヌの人々と和人勢力の間では、長い期間にわたって争いが続きました。

コシャマインの戦いは、突然現れた孤立した事件ではなく、交易と居住、土地と権力をめぐる関係が変化する中で起きた戦いだったのです。

誰にとっての勝利だったのか

この戦いを和人側の記録から見ると、武田信広がコシャマインを討ち、危機を乗り越えた出来事として描かれます。

実際、武田信広はその後、和人勢力の中で重要な地位を築いていきました。

その系統は、後の蠣崎氏、そして松前氏へとつながります。

しかし、ここで視点を変えてみましょう。

アイヌの人々にとって、この戦いは何だったのでしょうか。

自分たちが暮らしてきた土地に、外部から人々が来る。

交易のための拠点が築かれる。

やがて、それらが政治的・軍事的な力を持つようになる。

生活領域が脅かされ、対立が深まる。

その中で殺人事件が起き、戦いが始まった。

こうした経緯を考えれば、アイヌ側の行動を単純な反乱として片づけることはできません。

もともと誰がその土地に暮らしていたのか。

誰の生活が脅かされていたのか。

誰が新たな支配を広げようとしていたのか。

そこを見失ってはいけないと思います。

同じ戦いでも、支配を広げる側と、暮らしを守ろうとする側では、その意味が大きく異なります。

歴史に残された勝者の名前だけでなく、その争いによって生活を変えられた人々の存在にも目を向ける必要があります。

戦いの後も、交易はなくならなかった

コシャマインの戦いの後、北海道から和人が完全にいなくなったわけではありません。

また、アイヌと和人の交易そのものが消えたわけでもありません。

互いに必要とする品物があったからです。

北海道の海産物や毛皮。

本州から運ばれる鉄製品や米、陶磁器。

こうした品物の交換は、その後も続いていきました。

ただし、交易をめぐる政治的な関係は変わっていきます。

武田信広の系統につながる蠣崎氏は、北海道南部の和人勢力をまとめ、しだいに力を強めていきました。

そして16世紀半ばには、アイヌ側の首長との間で、交易や船の往来に関する取り決めが結ばれます。

ここで重要なのは、取り決めを結ぶ相手として、アイヌ側の指導者が存在していたことです。

和人の側だけで、すべてを決められる関係ではなかったのです。

この時期の交流には、対立だけでなく、交渉や合意によって関係を維持しようとする動きもありました。

しかし、その後、交易をめぐる力関係はさらに変わっていきます。

1604年、交易を独占する権利

1604年。

徳川家康は松前慶広に黒印状を与えました。

これによって松前氏は、アイヌとの交易を独占的に管理する政治的な権限を認められました。

ここで、非常に大きな変化が起きます。

それまでアイヌの人々は、さまざまな相手と交易を行っていました。

本州の人々だけではありません。

樺太やアムール川流域など、北方世界との交流もありました。

その長い歴史の中で、暮らしに必要な品物を交換してきたのです。

ところが、松前氏の交易独占が進むことで、和人との取引には政治的な制約が強まっていきます。

誰と交易できるのか。

どの場所で交換するのか。

品物をどのような条件で取引するのか。

こうした問題に、支配者の権限が強く関わるようになりました。

交易をする人々の関係から、交易を管理する権力との関係へ。

その変化は、単に商売の方法が変わるということではありません。

生活に必要な道具や食料を得る方法にも影響を及ぼします。

交易の条件を決める力が一方に集中すれば、もう一方は不利な条件を受け入れざるを得なくなることがあります。

こうして交易の仕組みそのものが、政治的な支配と結びついていったのです。

交易の自由を失うとは、どういうことなのか

ここで、もう少し具体的に考えてみましょう。

ある地域の人々が、魚や毛皮を持っているとします。

別の地域には、鉄製品や米を持つ人々がいます。

互いに必要なものを交換できれば、双方の暮らしを支えることができます。

しかし、ある勢力が現れて、取引する相手や場所を制限するようになったらどうでしょうか。

それまで利用していた交易相手を選べなくなる。

提示された条件が不利でも、別の相手と交換することが難しくなる。

品物を運ぶ経路を管理される。

必要な物資を得ることが、支配者との関係に左右されるようになります。

もちろん、交易には古くからさまざまな取り決めや力関係がありました。

過去の交易がすべて自由で公平だったわけではありません。

それでも、交易の選択肢を失うことが、人々の暮らしに重大な影響を与えるのは確かです。

ここで見えてくるのは、武力だけが支配の手段ではないということです。

必要なものを手に入れる道を押さえることも、人々の生活を左右する大きな力になるのです。

そして、この変化は後の北海道で、さらに深刻な対立へとつながっていきます。

1669年、再び大きな戦いが起きた

コシャマインの戦いから200年以上が経過した1669年。

北海道では、シャクシャインの戦いが起きました。

この時代、松前藩による交易の管理が進み、アイヌの人々の経済活動にはさまざまな制約が生じていました。

戦いには、アイヌ社会内部の地域的な対立も関係していましたが、松前藩との交易関係をめぐる不満も大きな背景となりました。

シャクシャインを中心とするアイヌ側の勢力は、松前藩に対して戦いました。

しかし、戦いは最終的に松前藩側の優位に終わり、シャクシャインは和議の場で殺害されました。

この出来事も、単なる一地方の争いとして見るだけでは十分ではありません。

交易関係が政治的な支配へと変化し、人々がそれに抵抗した歴史の一つとして考える必要があります。

1457年のコシャマインの戦い。

1669年のシャクシャインの戦い。

二つの出来事には、それぞれ異なる背景があります。

しかし、共通する問題も見えてきます。

それは、人々が暮らしを維持するために必要としていた交流が、外部の政治的な力によって制限されていく問題です。

ここで、越の歴史へ戻ってみる

今回の話は、北海道だけの問題ではありません。

これまで調べてきた越の歴史にも、重要な問いを投げかけています。

日本海沿岸では、古くから人々の交流が続いてきました。

縄文時代には、糸魚川周辺の翡翠が遠くの地域まで運ばれました。

古代には、日本海側を通じて北方の人々との交流が行われました。

中世には、能登の珠洲焼が津軽の十三湊まで運ばれていました。

こうした交流は、時代によって担い手も品物も変わります。

それでも、海を通じて人々が結びついていたことは共通しています。

では、その交流網に政治的な勢力が入り込んだとき、何が起きたのでしょうか。

港を管理する。

交易相手を制限する。

通行や物資の移動を監督する。

必要に応じて、武力によって支配を広げる。

そうした動きは、北海道だけでなく、各地の歴史で考える必要がある問題です。

古代の越についても、朝廷が勢力を広げる以前から存在した交流と、その後の政治的な支配を分けて考えることが重要ではないでしょうか。

交易によって結びついていた地域が、いつ、どのような過程で政治的な支配の対象になっていったのか。

その変化を追うことで、支配者の側から見た歴史だけでは分からない姿が現れてくるように思います。

なぜ、人々は共存ではなく支配を選ぶのか

ここで、一つの大きな疑問があります。

互いに必要なものを交換する関係が成立しているなら、なぜ支配しようとするのでしょうか。

もちろん、歴史上の争いにはさまざまな理由があります。

土地が必要だった。

資源を確保したかった。

交易による利益を管理したかった。

他の勢力に先を越されたくなかった。

自分たちの安全を守ろうとした。

こうした理由が、複雑に重なることもあります。

しかし、支配する側に理由があったことと、支配される側の生活が脅かされたことは、別の問題です。

一方の事情を説明することで、他方が受けた被害まで正当化されるわけではありません。

北海道の歴史を見ると、そのことがよく分かります。

和人の移住や交易活動には、それぞれの生活上、経済上の理由があったでしょう。

しかし、すでに暮らしていたアイヌの人々にとっては、土地や交易の自由が制限される現実がありました。

交流によって互いの暮らしを豊かにすることと、相手の暮らしを管理することには、大きな違いがあります。

そして、歴史を調べるときには、その違いを見落とさないようにしたいと思います。

歴史に残る戦争と、記録されなかった日常

コシャマインの戦いは、1457年という年号とともに歴史に記録されています。

しかし、その戦いが起きる以前にも、長い日常がありました。

船を出す人々。

魚を捕る人々。

鉄の道具をつくる人々。

品物を運ぶ人々。

異なる言葉や文化を持ちながら、交易を続けていた人々。

彼らの多くは、歴史書に名前を残していません。

けれども、交流を支えていたのは、こうした人々でした。

戦いが起きたとき、失われたのは命だけではありません。

日々の暮らしが変わった人もいたでしょう。

それまで利用できた道を失った人もいたかもしれません。

長く付き合ってきた交易相手との関係が途絶えたことも考えられます。

歴史書に残る戦争の記録だけでは、そうした一人ひとりの生活を知ることは難しいものです。

だからこそ、遺跡や出土品、地形や交通路など、別の手がかりも必要になります。

交易の歴史は、戦争のない時代を調べるためだけのものではありません。

戦争によって何が変わったのかを知るためにも、重要なのです。

一本の小刀が問いかけるもの

最後に、1456年の小刀をめぐる事件へ戻りましょう。

アイヌの若者は、生活に使う道具を求めて鍛冶職人のもとを訪れました。

その場面だけを見れば、日常の取引です。

ところが、その取引をめぐる争いは殺人事件となり、翌年には大規模な戦いが起きました。

しかし、戦いの原因を一本の小刀だけに求めることはできません。

背後には、和人の移住、拠点の拡大、生活領域をめぐる対立、交易関係の変化がありました。

そして、戦いが終わった後も、その問題は長く続いていきました。

ここで考えたいのは、交流と支配の違いです。

異なる人々が出会い、品物や知識を交換する。

そこから新しい技術や文化が生まれることがあります。

しかし、交流の中に一方的な支配が入り込めば、同じ道が争いの舞台にもなります。

日本海と津軽海峡は、長い間、人々を結びつける道でした。

その道を利用して、品物だけでなく知識や技術、文化も移動しました。

一方で、その交流網を誰が管理するのかをめぐって、政治的な争いも起きました。

人々を結びつけていた道が、なぜ人々を支配するための道にもなってしまったのか。

それは、北海道だけでなく、古代の越や東北、日本列島全体の歴史を考えるうえでも重要な問いではないでしょうか。

次は、さらに時代を遡ってみたいと思います。

朝廷の勢力が北へ広がっていった古代。

そこには、もともとどのような人々が暮らし、どのような社会を築いていたのでしょうか。

そして、人々の交流によって結ばれていた土地が、なぜ戦いの舞台になっていったのでしょうか。

日本海沿岸に残された古代の記録を追いながら、その歴史を考えていきます。

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