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聖徳太子の謎|冠位十二階と十七条憲法は、本当に一人の皇子が作ったのか。古代日本の政治を変えたのは誰だったのか【9】

2014.11.28

20. 厩戸皇子の時代が問いかけるもの|新しい制度と技術は、どのように社会を変えたのか

7世紀初めの日本列島で起きた変化を振り返ってみましょう。

推古天皇の時代には、冠位十二階や十七条憲法の制定が記録されています。

それらは、政治に関わる人々の地位や行動を、一定の制度や考え方によって整えようとする動きとして理解することができます。

また、遣隋使によって、中国大陸との直接的な外交や文化交流が進められました。

新しい知識を学ぶために、学生や学問僧も海を渡りました。

一方、日本列島では、寺院建築や仏像製作など、新しい技術を必要とする仕事が増えていました。

そこには、中国大陸や朝鮮半島から伝わった技術だけでなく、それまで日本列島で培われてきた技術や経験も関わっていたと考えられます。

では、これらの変化は、すべて厩戸皇子という一人の人物によって実現されたのでしょうか。

現在残されている資料から、そう断定することはできません。

推古天皇や蘇我馬子、外交に関わる人々、文字を扱う人々、寺院建築や製品の製作に携わる人々。

そうした多くの人々の活動があって、社会の変化は進んでいったのでしょう。

しかし、だからといって、厩戸皇子という人物の役割を小さく考える必要もありません。

後世に形成された聖徳太子像と、実際の厩戸皇子の活動を区別することによって、かえって当時の政治や社会を、より具体的に考えることができるのではないでしょうか。

ここで、歴史探訪でこれまで取り上げてきた出来事を振り返ると、一つの大きな流れが見えてきます。

纒向遺跡や箸墓古墳の時代には、巨大な古墳や広い地域の交流を通じて、政治的な中心が形成されていく過程を考えました。

前方後円墳が各地に広がった時代には、共通する墳墓の形が、地域同士の政治的な関係とどのように結びついていたのかを考えました。

倭の五王の時代には、中国王朝との外交を通じて、王権が自らの立場を示そうとしていた可能性を探りました。

稲荷山古墳と江田船山古墳の刀剣からは、遠く離れた地域の有力者たちが、同じ大王の名前を記録していたことを知りました。

継体大王の時代には、王位継承と地方の政治的な基盤をめぐる謎が現れました。

筑紫君磐井の戦いからは、ヤマト王権と九州の有力者たちの関係が、単純な命令と服従だけでは説明できないことを考えました。

そして、仏教の伝来によって、新しい信仰や技術が日本列島に広がっていきました。

こうした長い変化の中で、7世紀初めの王権は、新しい政治制度や外交関係を整えようとしていたのかもしれません。

つまり、冠位十二階や十七条憲法は、何もないところから突然生まれたものではなかったのでしょう。

それまでに積み重ねられてきた政治的な関係や経験があり、そこへ中国大陸や朝鮮半島の制度や思想が伝わってきた。

そして、それらを参考にしながら、新しい仕組みを作ろうとする動きが生まれた可能性があります。

ものづくりも同じです。

新しい技術が伝わったからといって、それまでの技術がすべて失われるわけではありません。

古くから培われてきた経験に、新しい知識や技術が加わる。

その結果、これまでとは異なる製品や建築物を作ることができるようになります。

そして、次の世代の人々が、その技術をさらに発展させていく。

歴史の変化は、そのような積み重ねによって生まれてきたのではないでしょうか。

21. 聖徳太子の謎が残したもの|一人の英雄の歴史から、人々が作り上げた歴史へ

聖徳太子は、日本の歴史の中で特別な存在として語り継がれてきました。

冠位十二階を定めた人物。

十七条憲法を作った人物。

遣隋使を派遣した人物。

仏教を広めた人物。

そして、法隆寺の建立に関わった人物。

しかし、それらの業績について、どこまでが実際の厩戸皇子の活動だったのかを確定することは簡単ではありません。

『日本書紀』には多くの記述が残されていますが、その成立は厩戸皇子の時代から約100年後です。

一方、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘など、同時代に近い資料からは、厩戸皇子に関係する人物や信仰の存在を考えることができます。

そのため、後世の伝承と、実際の出来事を区別しながら考える必要があります。

そして、もう一つ忘れてはならないことがあります。

それは、7世紀初めの日本列島を変えていったのが、政治的な力を持つ人物だけではなかったということです。

冠位制度を運用する人々。

政治的な文書を作り、記録する人々。

海を渡って外交を行う使節たち。

中国大陸で学問を学ぶ学生や僧侶たち。

寺院を設計し、木材を加工する職人たち。

瓦を焼き、金属を鋳造し、仏像や装飾を作る技術者たち。

そうした人々が、それぞれの仕事を通じて、時代の変化を支えていたはずです。

そして、その多くの人々の名前は、歴史に残されていません。

それでも、彼らの仕事は残っています。

法隆寺の建築に残る木材の加工技術。

釈迦三尊像に見られる金属加工や造形の技術。

玉虫厨子に組み合わされた木工、漆工、金属加工、装飾の技術。

それらは、当時の人々が何を考え、何を作ろうとし、どのような知識や経験を持っていたのかを、現在の私たちに伝えてくれています。

歴史上の人物の名前は、時代を象徴するものとして記憶されることがあります。

しかし、時代を実際に変えていくためには、その構想を現実のものにする多くの人々の働きが必要です。

そして、一度作られた制度や技術も、そのまま永遠に続くわけではありません。

社会の状況が変われば、制度も変わります。

新しい知識が伝われば、技術も変わります。

それまでの経験を生かしながら、必要なものを学び、新しい形へと変えていく。

人々は、そうした変化を繰り返しながら、次の時代へ進んできたのでしょう。

聖徳太子の時代を考えることは、一人の優れた人物の業績を知ることだけではありません。

異なる考えを持つ人々が政治に関わり、新しい知識を学び、技術を組み合わせながら、社会を変えていった過程を考えることでもあるのです。

そして、厩戸皇子が亡くなったと伝えられる622年から、わずか20年余り後。

日本列島の政治は、再び大きな転換点を迎えることになります。

蘇我氏の勢力がさらに強まり、王族や豪族たちとの関係が変化していく中で、645年、大きな事件が起きました。

乙巳の変です。

蘇我入鹿が宮廷で殺害され、その後、大化改新と呼ばれる政治的な改革が進められていったと伝えられています。

しかし、その改革は、本当に645年を境に突然始まったのでしょうか。

それとも、7世紀初めから続いていた政治的な変化が、新しい段階へ進んだ出来事だったのでしょうか。

次回予告|乙巳の変と大化改新の謎 蘇我氏は本当に国家改革を妨げていたのか

645年、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が殺害されました。

中大兄皇子や中臣鎌足らによる政治的な事件です。

その後、蘇我蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅亡したと伝えられています。

この出来事は、一般に「乙巳の変」と呼ばれています。

そして、その後に進められた政治的な改革が「大化改新」です。

しかし、蘇我氏は本当に、古い政治の仕組みに固執し、新しい制度の導入を妨げていたのでしょうか。

前回までの歴史探訪で見てきたように、蘇我氏は仏教の受容や寺院建立に積極的に関わってきた氏族でもありました。

新しい文化や技術を取り入れることに関わってきた蘇我氏が、なぜ後の歴史では改革を妨げる存在として描かれるようになったのでしょうか。

さらに、『日本書紀』に記された改新の詔には、後の時代に整備された制度や用語との関係を検討する必要がある部分もあります。

土地や人々をどのように把握し、政治的な仕組みをどのように変えていこうとしたのでしょうか。

そして、そうした制度の変化は、農業や生産活動、技術者たちの仕事にどのような影響を与えたのでしょうか。

次回は、乙巳の変と大化改新を、単純な改革派と反改革派の対立としてではなく、史料に残された記述と考古資料をもとに、7世紀の政治と社会がどのように変わっていったのかという視点から探っていきます。

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