東大阪の研究開発現場から生産現場までの「ものづくり」なら【株式会社アリス】試作サンプル、切削加工、精密部品加工、可視化部品製作、透明化処理、現物からの製作、単品OK

  • トップ
  • ニュース
  • 乙巳の変と大化改新の謎|蘇我氏は本当に国家改革を妨げていたのか【1】

乙巳の変と大化改新の謎|蘇我氏は本当に国家改革を妨げていたのか【1】

2014.11.29

645年、飛鳥の宮殿で、日本の歴史を大きく変える事件が起こりました。

当時の朝廷で強大な権力を握っていた蘇我入鹿(そがのいるか)が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって殺害されたのです。

翌日には父の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自害し、長年にわたって政治の中枢を担ってきた蘇我氏の本宗家は滅亡しました。

この事件が「乙巳の変(いっしのへん)」です。

そして、その後に進められた政治改革が「大化の改新」と呼ばれています。

学校の歴史では、蘇我氏は天皇をしのぐほどの権力を持ち、政治を私物化した豪族として描かれることがあります。そして、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒し、天皇を中心とする新しい国家づくりを始めたと説明されてきました。

しかし、ここには大きな疑問があります。

蘇我氏は、本当に国家改革を妨げていたのでしょうか。

仏教を受け入れ、寺院を建設し、大陸の文化や技術を積極的に導入してきたのは、ほかならぬ蘇我氏でした。

新しい制度や技術を取り入れてきた一族が、なぜ突然、改革を妨げる存在として歴史に登場するのでしょう。

さらに、蘇我氏を倒した人々が目指した国家と、蘇我氏自身が構想していた国家は、本当に正反対のものだったのでしょうか。

今回は、乙巳の変という劇的な政変の背後にあった権力争い、国家制度の変化、そして名もなき人々の生産活動に目を向けながら、日本古代史の大きな転換点を探っていきます。

蘇我氏は古い政治を守ろうとした一族だったのか

乙巳の変を考えるには、まず蘇我氏がどのような役割を果たしてきたのかを振り返る必要があります。

6世紀から7世紀にかけて、蘇我氏は大王家との婚姻関係を深めながら、朝廷の有力豪族として勢力を拡大していきました。

蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿へと続く一族は、数代にわたって政治の中心に位置していました。

なかでも蘇我馬子は、仏教の受容を進め、物部守屋との争いに勝利し、推古天皇の時代には厩戸皇子(聖徳太子)らとともに政治を支えた人物として知られています。

飛鳥寺の建立も、蘇我氏の活動を象徴する事業の一つです。

当時、巨大な寺院を建設することは、単に信仰のための建物を造ることではありませんでした。

大陸から伝わった建築技術、瓦の製造技術、仏像鋳造、木工、石材加工、測量など、多様な技術を組み合わせる大規模な事業でした。

寺院の建設には、多くの職人や労働者、資材を供給する人々が必要です。

建物を完成させるためには、技術だけでなく、人員の配置、資材の調達、運搬、工程の管理も欠かせません。

つまり蘇我氏は、新しい文化を受け入れるだけでなく、それを実際の建造物や社会の仕組みとして形にしていく力を持っていたと考えられます。

もちろん、それだけで蘇我氏の政治が公正だったと証明されるわけではありません。

しかし、少なくとも蘇我氏を、ただ古い仕組みに固執していた一族として理解することは難しいのです。

むしろ蘇我氏自身が、当時の日本における変化を推し進めた重要な勢力だったのではないでしょうか。

なぜ蘇我入鹿は危険な存在とされたのか

蘇我馬子の死後、その子の蝦夷が政治の中心を担い、さらに入鹿が大きな影響力を持つようになります。

『日本書紀』には、入鹿が父の存命中から権力を振るい、皇位継承に関わる問題にも強引に介入した様子が描かれています。

特に重要なのが、643年に起きた山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族滅亡事件です。

山背大兄王は、厩戸皇子の子と伝えられる人物でした。

『日本書紀』によれば、蘇我入鹿は山背大兄王の一族を襲撃させ、山背大兄王は一族とともに命を絶ちました。

この事件は、後に入鹿が討たれる理由の一つとして語られています。

しかし、ここにも疑問が残ります。

山背大兄王の排除は、入鹿だけの独断だったのでしょうか。

当時の皇位継承には複数の有力な候補者が関わっており、大王家の内部にも複雑な利害関係が存在していました。

歴史学者の遠山美都男氏は、山背大兄王の滅亡を王位継承をめぐる争いの中で捉え、皇極天皇の関与という可能性も論じています。これは確定した事実ではありませんが、事件を蘇我入鹿個人の野心だけで説明する見方とは異なる重要な研究上の解釈です。

蘇我氏が強大な力を持っていたことと、蘇我氏だけが政治の混乱を生み出していたことは、同じではありません。

当時の政治は、天皇と豪族が単純に対立する仕組みではなく、大王家の内部対立と有力豪族の利害が複雑に結びついた世界だったと考えられます。

その中で入鹿が誰を支持し、誰と対立したのか。

乙巳の変を理解するには、この皇位継承問題を避けることはできません。

645年、宮殿で何が起こったのか

645年6月、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、朝鮮半島の三韓からの使節に関わる儀式が行われようとしていました。

『日本書紀』によれば、この機会を利用して中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿の暗殺を計画しました。

入鹿が宮中に入ると、あらかじめ準備していた人々が行動を起こします。

計画に加わった者たちがためらう中、中大兄皇子自身が飛び出して入鹿を襲ったと伝えられています。

負傷した入鹿は皇極天皇に無実を訴えましたが、最終的に殺害されました。

翌日、父の蘇我蝦夷は自邸に火を放ち、自害したと記されています。

蘇我氏の本宗家は、こうして政治の表舞台から姿を消しました。

ただし、これは720年に成立した『日本書紀』に残された記述です。

事件の約75年後に編纂された史書であり、その政治的な立場や編集意図を考慮する必要があります。

特に『日本書紀』では、中大兄皇子らの行動が正当なものとして描かれ、蘇我氏の行動は否定的に記される傾向があります。

政変が起きたこと自体と、その細部が記述どおりだったかという問題は、分けて考えなければなりません。

宮殿での暗殺は、事前に周到な計画が立てられた政治的な実力行使でした。

改革の始まりと評価される出来事であっても、その出発点は血を伴う権力の交代だったのです。

                 一覧へ戻る
アリスの仕事に対する想いを見る オリジナルサンプル制作