乙巳の変と大化改新の謎|蘇我氏は本当に国家改革を妨げていたのか【2】
乙巳の変は国家改革だったのか、それとも権力争いだったのか
乙巳の変の後、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が孝徳天皇として即位しました。
中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足も新しい政治体制の中で重要な役割を担いました。
また、阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)や蘇我倉山田石川麻呂らが左右の大臣となり、僧旻や高向玄理など、大陸の制度や文化に知識を持つ人々も政治に関わるようになります。
ここで注目したいのは、蘇我氏がすべて排除されたわけではないという点です。
蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我氏の一族でありながら乙巳の変に協力し、新政権の右大臣となりました。
つまり、事件は蘇我氏という氏族全体を倒すための争いではなく、蝦夷・入鹿父子を中心とする本宗家を排除する政変だったと理解できます。
ここから浮かび上がるのは、国家改革をめぐる対立だけでなく、誰が政治の主導権を握るのかという問題です。
中大兄皇子たちは、本当に蘇我氏の政策に反対していたのでしょうか。
それとも、蘇我氏が進めようとしていた国家の方向性を受け継ぎながら、その主導権を奪おうとしたのでしょうか。
もちろん、両者の政治構想がまったく同じだったと証明できる史料はありません。
しかし、改革を進める勢力と改革を妨げる勢力という単純な対立では説明できない部分があることは確かです。
乙巳の変は、国家の仕組みを変える動きと、王位継承や政治的主導権をめぐる争いが重なった事件だった可能性があります。
大化の改新で何が変わろうとしたのか
翌646年、『日本書紀』には「改新の詔」が発せられたと記されています。
その内容は、大きく四つの柱から成り立っています。
第一に、従来の豪族による私的な土地や人民の支配を見直すこと。
第二に、地方の行政制度や交通・通信の仕組みを整えること。
第三に、戸籍や土地の把握を進め、農地を分配する制度を設けること。
第四に、従来の負担の仕組みを整理し、統一的な税制へと移行することです。
これらは、後の律令国家につながる重要な政策として理解されてきました。
ただし、646年にこれらの制度が完成したわけではありません。
改新の詔には、後の律令制度を反映したと考えられる表現が含まれており、記述をそのまま646年当時の制度として受け取ることには慎重さが必要です。
一方で、後世の潤色があるからといって、当時の改革そのものが存在しなかったと決めつけることもできません。
木簡などの出土資料を用いながら、7世紀半ばに実際に行われた政策と、後から整理された制度の姿を区別する研究が進められています。
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この問題を考えるうえで重要なのは、国家制度は命令を出しただけでは完成しないということです。
例えば、全国の土地を把握するには、土地を測る技術が必要です。
どこに田畑があり、誰が耕し、どれほどの収穫が得られるのかを調べなければなりません。
戸籍を整えるには、人々の名前や所属、家族関係などを記録する仕組みが必要です。
税を集めるには、収穫物の数量を把握し、運搬し、保管する施設や人員を整えなければなりません。
それまで地域ごとに異なっていた社会の仕組みを統一することは、非常に大きな事業だったはずです。
法律や制度だけでなく、それを現場で動かす人々の知識と技術が必要だったのです。
国家を支えたのは、記録に残らない人々だった
大化改新という言葉からは、天皇や皇子、大臣たちの名前が思い浮かびます。
しかし、国家の仕組みが変わるとき、その影響を実際に受けるのは地方で暮らす人々でした。
田畑を耕す農民。
鉄製の農具を作る鍛冶職人。
木材を伐り出す人々。
道路や橋を整備する労働者。
建物を建てる大工。
物資を運ぶ人々。
そして、文字を使って記録を残す役人たち。
新しい国家制度を動かすには、こうした人々の仕事が欠かせませんでした。
例えば、土地の管理方法が変われば、農民が負担する税や労働のあり方にも影響が及びます。
道路が整備されれば、人や物資の移動は変化します。
行政の拠点が設けられれば、建築用の木材、屋根材、工具、生活用品など、新しい需要が生まれます。
もちろん、こうした変化が646年の詔によって全国一斉に起きたわけではありません。
7世紀から8世紀にかけて長い時間をかけて整えられた国家制度は、各地域の生産や交通、労働のあり方と深く結びついていました。
政治の歴史を考えるとき、私たちはどうしても権力者の判断に注目します。
しかし、国家を実際に形にしたのは、制度を現場で支えた数え切れない人々だったのではないでしょうか。