乙巳の変と大化改新の謎|蘇我氏は本当に国家改革を妨げていたのか【3】
なぜ当時の日本は国家の仕組みを変える必要があったのか
7世紀の日本を考えるうえで、東アジア情勢の変化は見逃せません。
中国では隋に続いて唐が成立し、強大な統一国家が周辺地域に大きな影響を与えていました。
朝鮮半島では高句麗、百済、新羅が対立し、中国王朝との関係も複雑に変化していました。
倭国は、こうした国々との外交や交流を通じて、大陸の政治制度や文化、技術に接していました。
この時代、国家の力は軍事力だけで決まるものではありません。
人員を動員し、食料や物資を集め、情報を伝え、外交を行う仕組みも重要でした。
各地域の豪族が独自に人々を支配し、物資を管理する仕組みには、地域社会に根差した強みがあったと考えられます。
一方で、広い範囲から資源を集め、国家として統一的に行動するには、従来とは異なる制度が求められた可能性があります。
この変化は、蘇我氏が滅亡したから突然始まったものではありません。
遣隋使や遣唐使、留学生・留学僧の派遣などを通じて、国外の政治制度や文化を学ぶ活動は、乙巳の変以前から行われていました。
蘇我氏が関わった仏教の受容や寺院建設も、その長い交流の歴史の一部です。
そう考えると、大化の改新は、まったく何もなかったところから始まった改革ではなく、長年積み重ねられてきた変化が政治制度として表れた一つの転換点だったのかもしれません。
蘇我氏が滅亡しなければ、国家改革は進まなかったのか
ここで、今回の中心となる疑問に戻ってみたいと思います。
蘇我氏は、本当に国家改革を妨げていたのでしょうか。
蘇我氏が強大な権力を持ち、皇位継承に深く関与していたことは、『日本書紀』の記述から読み取れます。
しかし、蘇我氏が中央集権的な国家づくりそのものに反対していたと断定できるわけではありません。
蘇我氏は大陸の文化や技術の導入に関わり、王権と結びつきながら政治の中枢を担っていました。
そこから、蘇我氏もまた新しい国家体制を構想していたのではないかという可能性が生まれます。
研究上も、蘇我蝦夷・入鹿父子がどのような国家構想を持っていたのかは十分に明らかではなく、蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を擁立する政治体制を構想していた可能性などが論じられています。
kogakkan.repo.nii.ac.jp
+1
仮にそうだったとすれば、乙巳の変は、改革する側が改革しない側を倒した事件とは限りません。
異なる政治勢力が、それぞれの立場から新しい国家の主導権を争った事件だったとも考えられます。
蘇我氏が勝っていたとしても、何らかの国家制度の整備は進んだ可能性があります。
ただし、これは歴史上の仮説です。
蘇我氏が実際にどのような制度を構想し、どこまで実行しようとしていたのかを示す直接的な証拠は限られています。
歴史に残されたのは、蘇我氏が敗れ、その後の政治を担った人々の立場から編纂された記録なのです。
大化改新は一度に完成した改革ではなかった
乙巳の変の後も、日本の国家制度が直ちに安定したわけではありません。
孝徳天皇の時代には難波への遷都が行われ、新しい政治体制の整備が試みられました。
しかし、政治の中心人物たちの関係は必ずしも安定していませんでした。
孝徳天皇と中大兄皇子の間にも政治的な緊張が生じたと考えられています。
さらに、663年の白村江の戦いでは、倭国は百済復興を支援するために朝鮮半島へ軍を派遣しましたが、唐・新羅の連合軍に敗北しました。
この敗戦は、日本列島の防衛体制を考え直す大きな契機になりました。
その後、九州などには防衛施設が整えられ、国家による人員や物資の動員が進められていきます。
そして、672年には壬申の乱という皇位継承をめぐる大きな内乱が発生しました。
国家制度の整備は、こうした政治的な対立や対外的な危機を経験しながら進んでいったのです。
701年に大宝律令が制定されるまでには、乙巳の変から半世紀以上の時間が経過していました。
その間に、多くの人々が制度の整備、行政の運営、都城の建設、地方支配の仕組みづくりに関わったはずです。
大化改新を一人の英雄や一度の政変によって実現した改革として理解するのではなく、何世代にもわたる国家形成の過程として考えることが大切なのではないでしょうか。