仏教伝来の謎|なぜ海を越えてきた新しい信仰が、古代日本の政治とものづくりを変えたのか【7】
13. 寺院建築と古墳築造|人々が力を注ぐものは、なぜ変わっていったのか
飛鳥寺の建立を考えるとき、古墳時代の大きな変化にも目を向ける必要があります。
それまでの日本列島では、有力者たちが巨大な前方後円墳を築いていました。
大きな古墳を築くことは、その人物や一族の権威を示す重要な行為だったと考えられています。
巨大な墳丘を造り、石材を運び、埋葬施設を整え、埴輪や石製品を配置する。
そこには、多くの人々の労働力と技術が必要でした。
しかし、6世紀から7世紀にかけて、日本列島では巨大な前方後円墳の築造が次第に減少し、やがて終わりを迎えていきます。
一方、新しい仏教寺院の建立が進むようになります。
では、これは単に古墳を造る仕事が、寺院を造る仕事へ変わったということなのでしょうか。
そう単純には言えません。
古墳と寺院では、目的が異なります。
古墳は、亡くなった有力者を埋葬するための施設です。
一方、寺院は、仏像を安置し、僧侶が活動し、人々が信仰を行うための施設です。
そのため、必要とされる設計や構造、材料、維持管理の方法も異なります。
また、巨大古墳の減少と寺院建立の増加が、すべて同じ原因によって起きたとも限りません。
政治的な権威の示し方が変わった可能性があります。
王権や豪族たちの関係が変化した可能性もあります。
さらに、仏教という新しい信仰が、社会に受け入れられていったことも関係していたのでしょう。
しかし、両者に共通する点もあります。
それは、大規模な建造物を造るためには、多くの技術者や人々の協力が必要だったということです。
古墳を築く人々も、寺院を建てる人々も、材料を調達し、加工し、運搬し、決められた形へ作り上げる必要があります。
そして、新しい建築物が求められるようになれば、それに対応した技術や仕事も必要になります。
古墳の時代から寺院の時代へ。
その変化は、政治や信仰の変化であると同時に、社会が必要とするものづくりの内容が変わっていく過程でもあったのです。
14. 仏教がもたらしたのは信仰だけだったのか|文字・学問・技術の広がり
仏教の伝来によって日本列島へ広がっていったものは、仏像や寺院建築の技術だけではありませんでした。
経典を読むためには、漢字を理解する能力が必要です。
仏教の教えを学ぶためには、その内容を説明し、伝える人々も必要になります。
また、寺院を運営するには、建物や仏具、食料、財産など、さまざまなものを管理する必要があります。
そうした活動の中で、文字を使う機会も増えていった可能性があります。
ただし、日本列島に文字が伝わったのは、仏教の伝来が最初だったわけではありません。
前々回の歴史探訪で取り上げた稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の大刀には、5世紀の文字資料が残されていました。
つまり、仏教公伝より前から、漢字を扱う人々が存在していたことが分かります。
仏教の伝来によって、初めて文字が使われるようになったわけではないのです。
しかし、仏教の経典や寺院の運営が広がることで、文字や記録を必要とする場面が増えていった可能性は考えられます。
また、僧侶たちは宗教的な知識だけでなく、中国大陸や朝鮮半島で発展してきたさまざまな学問や文化に接していました。
そのため、寺院が新しい知識の集まる場所としての役割を持つようになった可能性もあります。
ここで興味深いのは、知識や技術が互いに関係しながら広がっていくことです。
寺院を建てるには設計の知識が必要です。
仏像を作るには金属加工や造形の技術が必要です。
瓦を作るには粘土や焼成に関する経験が必要です。
そして、それらの仕事を進めるには、人々が互いに情報を伝え、協力する必要があります。
新しい信仰が広がることで、新しい製品や建築物が必要になる。
新しい製品を作るために、技術者たちが知識を学び、工夫を重ねる。
その技術が、別の製品や建築物にも応用される。
そうした積み重ねが、社会全体の技術や文化の変化につながっていったのかもしれません。
仏教の伝来は、単に外から完成した文化を受け入れる出来事ではありませんでした。
新しい知識を学び、それを自分たちの社会の中で使えるものへ変えていく過程でもあったのでしょう。
15. 渡来した技術者と日本列島の職人たち|新しい技術はどのように根づいたのか
飛鳥寺の建立に百済から来た技術者たちが関わっていたことは、文献に記されています。
しかし、それだけで飛鳥寺が完成したわけではありません。
建築に必要な木材や土、石などの材料は、現地で調達されたものも多かったでしょう。
それらを加工し、建物を組み立て、屋根を仕上げるためには、日本列島に暮らす多くの人々の協力が必要だったと考えられます。
では、言葉も文化も異なる人々が、どのように協力して寺院を完成させたのでしょうか。
通訳や文字を扱う人々が、技術者同士の意思疎通を支えていた可能性があります。
また、実際の製作現場では、作業を見せ、道具を使い、完成した部材を確認しながら技術が伝えられたことも考えられます。
もちろん、当時の作業現場で具体的にどのような指導が行われていたのかを、直接示す記録は十分に残されていません。
それでも、技術が別の地域へ伝わり、実際の製品として完成している以上、何らかの形で知識や経験が共有されていたはずです。
そして、技術を受け入れる側にも、学び、試し、使いこなそうとする人々が存在していたのでしょう。
ここで重要なのは、技術の伝来を、外部から来た人々が一方的に教え、日本列島の人々がそれを受け取っただけの出来事として考えないことです。
新しい技術が現地に根づくためには、既存の技術や経験との組み合わせが必要になることがあります。
材料の性質が違えば、加工方法を調整しなければなりません。
道具や設備が異なれば、製作工程を工夫する必要があります。
そして、製作する人々が増えていけば、技術を次の世代へ伝える仕組みも必要になります。
飛鳥寺の建立に関わった技術者たちが、どのような指導を行い、現地の人々がどのように技術を習得したのか。
その詳細は分かっていません。
しかし、その後、日本列島の各地に寺院が建立されていったことを考えると、寺院建築や瓦製作、仏像製作などの技術が広がり、継承されていったことは確かです。
飛鳥寺で培われた技術が、そのまま同じ形で各地へ伝わったとは限りません。
それぞれの地域で材料や条件に応じた工夫が加えられ、新しい製作方法が生まれていった可能性もあります。
技術が広がるということは、同じものを繰り返し作ることだけではありません。
新しい条件に合わせて考え、使い方を変え、必要なものを作り上げていくことでもあります。
6世紀末の日本列島では、そうした変化が、寺院建築や仏像製作という新しい仕事を通じて進んでいたのかもしれません。