筑紫君磐井の謎|なぜ九州の巨大勢力はヤマト王権と戦ったのか。反乱と記された戦いの背後に何があったのか【10】
19. 岩戸山古墳が伝えるもの|歴史に名前を残さなかった人々の仕事
約1500年前、岩戸山古墳を築いた人々は、どのような思いで仕事に取り組んでいたのでしょうか。
巨大な墳丘を造るために、土を運んだ人々がいたはずです。
石材を切り出し、人物や馬の形に加工した職人たちがいたはずです。
完成した石製品を運び、決められた場所に据え付けた人々もいたでしょう。
そして、それらの仕事を進めるために、材料や人員を調整した人々も存在していたと考えられます。
しかし、そのほとんどの人々の名前は、歴史に残されていません。
磐井という人物の名前は、現在まで伝えられています。
けれども、岩戸山古墳を実際に作り上げた人々が、どのような名前で、どこに暮らし、どのような技術を持っていたのかを知ることは難しいのです。
それでも、彼らの仕事は残りました。
石人の表情。
石馬に表現された馬具。
石盾の形。
巨大な墳丘の姿。
そうしたものの一つひとつに、当時の人々が持っていた技術や知識が表れています。
そして、その製品は1500年もの年月を経て、現代の私たちに当時の社会を考える手がかりを与えてくれています。
歴史に残る名前と、歴史に残る仕事。
その二つは、必ずしも同じではありません。
王や豪族の名前は知られていても、実際に形を作り上げた職人の名前は分からないことが多くあります。
しかし、名前が残らなかったからといって、その人々の仕事が歴史から消えてしまったわけではありません。
製品の形や加工の痕跡、使われた材料、残された構造などから、私たちは当時の仕事を考えることができます。
そして、そうした技術は、一人の職人だけで生まれたものではなかったでしょう。
前の世代から学び、経験を積み、失敗や工夫を重ねながら受け継がれてきたものだったはずです。
ある職人が学んだ技術を、次の世代へ伝える。
別の地域から伝わった製作方法を試してみる。
使う材料や目的に合わせて、新しい工夫を加える。
そのような積み重ねの中で、ものづくりの技術は発展していったと考えられます。
岩戸山古墳の石人・石馬も、そうした長い技術の積み重ねによって生まれた製品だったのかもしれません。
磐井とヤマト王権の戦いが終わった後も、人々の暮らしや仕事は続いていきました。
政治的な力の関係が変化しても、社会を支える技術や経験が、すべて失われたわけではなかったでしょう。
そして、それまでに培われた技術や知識は、次の時代のものづくりへとつながっていった可能性があります。
歴史は、権力を持つ人々の名前だけで作られるものではありません。
その時代を生き、仕事をし、必要なものを作り続けた人々の活動によっても形づくられているのです。
20. 磐井の謎が問いかけるもの|古代日本はどのように一つの政治的な世界へ向かっていったのか
筑紫君磐井の戦いを考えていくと、古代日本の政治がどのように変化していったのかという大きな問題に行き着きます。
5世紀後半、ワカタケル大王の名前が、東国と九州の刀剣に刻まれていました。
そこからは、遠く離れた地域の有力者たちが、同じ大王を意識する政治的な関係が存在していたことを考えることができます。
しかし、そうした関係が、すべての地域で同じように成立していたとは限りません。
各地には独自の力を持つ有力者たちが存在していました。
そして、6世紀前半、継体大王の時代に、九州の大きな地域勢力であった磐井と、ヤマト王権との間で武力衝突が起きたと記録されています。
この戦いは、王権が地方を支配していく過程で起きた反乱だったのでしょうか。
それとも、独自の力を持つ地域勢力と王権との関係が変化する中で生じた政治的な対立だったのでしょうか。
あるいは、朝鮮半島をめぐる外交や交易の利害が重なり、避けられない衝突へと発展したのでしょうか。
現在残されている史料から、すべてを明らかにすることはできません。
しかし、磐井の戦いが起きた背景には、単純な命令と服従だけでは説明できない複雑な政治的な関係が存在していた可能性があります。
そして、その関係を支えていたのは、王や豪族だけではありませんでした。
土地を耕す人々。
鉄や石を加工する職人たち。
船を動かし、物資を運ぶ人々。
他の地域へ移動し、新しい技術や知識を伝える人々。
そうした人々の活動によって、地域社会は成り立ち、地域同士の関係は維持されていたはずです。
磐井の戦いは、6世紀の日本列島における政治的な転換点の一つだったのかもしれません。
しかし、政治的な転換は、それまでの社会が突然消え去ることを意味するものではありません。
長い年月をかけて形成された人々の関係や技術、文化は、形を変えながら次の時代へ受け継がれていきます。
そして、6世紀の日本列島では、これまでとは異なる新しい文化が、政治や社会に大きな影響を与えようとしていました。
仏教です。
仏教が日本列島へ伝わったことは、単に新しい信仰が加わったというだけではありませんでした。
寺院を建てるための建築技術。
仏像を作るための鋳造技術。
瓦を作るための焼成技術。
仏具や装飾を製作する金属加工技術。
そして、経典を読み、記録を残すための文字や知識。
新しい信仰とともに、さまざまな技術や文化が伝わってきました。
それらを受け入れようとする人々がいる一方で、従来の信仰や政治的な秩序を重視する人々も存在していました。
やがて、その違いは、王権の内部で大きな対立へと発展していきます。
磐井の戦いが示した王権と地域勢力の関係に続いて、次の時代には、王権の中心にいる豪族たちの間で、新しい文化の受け入れをめぐる対立が起きるのです。
次回予告|筑紫君磐井の謎 九州の巨大勢力は、なぜヤマト王権と戦ったのか
6世紀前半、九州北部には、巨大な前方後円墳を築くほどの力を持つ有力者が存在していました。
筑紫君磐井です。
『日本書紀』によれば、527年、磐井は王権に反抗し、翌528年に討たれたとされています。
しかし、この出来事は、本当に単純な反乱だったのでしょうか。
九州には、朝鮮半島との交流を通じて独自の力を築いてきた地域勢力が存在していました。
磐井もまた、そうした広い交流の中で活動していた人物だった可能性があります。
なぜ、継体大王の時代に九州で大きな戦いが起きたのでしょうか。
磐井はヤマト王権の支配を拒んだのでしょうか。
それとも、政治的な利益や朝鮮半島との関係をめぐって、王権と対立したのでしょうか。
そして、福岡県八女市の岩戸山古墳に残る石人や石馬は、当時の九州にどのような技術と文化が存在していたことを物語るのでしょうか。
次回は、「磐井の乱」として伝えられる出来事を、王権側の記録だけでなく、九州に残る巨大古墳や石製品、地域の交流という視点から考えていきます。