継体大王の謎|なぜ遠く離れた越前から迎えられた王は、大和に入るまで20年もの歳月を必要としたのか【3】
6. 手白香皇女との婚姻|新しい王統と古い王統を結ぶもの
継体大王の即位を考えるうえで、もう一つ重要な出来事があります。
手白香皇女との婚姻です。
手白香皇女は、仁賢天皇の娘であり、武烈天皇の姉妹にあたる人物として記録されています。
つまり、継体大王より前の王統と直接つながる人物です。
『日本書紀』によれば、継体大王は手白香皇女を皇后としました。
そして、二人の間に生まれた皇子が、後の欽明天皇とされています。
この婚姻には、政治的に重要な意味があった可能性があります。
もし継体大王が遠い血縁関係にある人物だったのであれば、それまでの王統に属する手白香皇女との婚姻によって、王位継承の正統性を強化できたかもしれません。
一方、継体大王が異なる政治勢力を背景に登場した人物だったとすれば、この婚姻は旧来の王統と新しい勢力を結びつける役割を果たした可能性があります。
古代の有力者たちにとって、婚姻は単なる個人同士の関係ではありませんでした。
異なる一族や地域の勢力を結びつけ、次の世代に関係を引き継ぐ手段にもなり得たのです。
ただし、手白香皇女との婚姻が、実際にどのような政治的交渉によって成立したのかは分かりません。
また、婚姻が王位継承のために計画されたものだったのか、それとも後から政治的な意味を持つようになったのかについても、断定することはできません。
それでも、継体大王の子孫がその後の王統につながっていくことを考えると、手白香皇女の存在は重要です。
継体大王の時代に始まった新しい関係が、次の世代の政治的な基盤を形づくっていった可能性があるからです。
王統の継続とは、単に血縁が続くことだけだったのでしょうか。
それとも、異なる勢力が婚姻や協力を通じて結びつき、新しい政治的な秩序を形成していくことでもあったのでしょうか。
継体大王と手白香皇女の婚姻は、その問題を考える大きな手がかりになります。
7. 今城塚古墳の謎|継体大王はどこに葬られたのか
継体大王の実像を考えるうえで、古墳の存在も重要です。
現在、宮内庁が継体天皇の陵墓として治定しているのは、大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳です。
全長約226メートルの大規模な前方後円墳で、従来から継体天皇の陵墓とされてきました。
しかし、考古学的な研究では、太田茶臼山古墳の築造年代は5世紀中頃と考えられています。
継体大王の活動した6世紀前半とは、年代にずれがあります。
そこで、継体大王の実際の墓ではないかと考えられているのが、大阪府高槻市にある今城塚古墳です。
今城塚古墳は、墳丘長約190メートルの前方後円墳です。
二重の濠を備え、周囲の施設を含めると非常に大きな規模を持っています。
発掘調査によって、6世紀前半に築かれたと考えられることが明らかになりました。
さらに、埴輪祭祀区や埋葬施設に関係する構造など、多くの重要な発見がありました。
これらの考古学的な成果から、今城塚古墳を継体大王の墓と考える説が有力になっています。
ただし、被葬者の名前を直接示す確実な銘文が発見されているわけではありません。
そのため、今城塚古墳が継体大王の墓であるという判断も、築造年代、規模、構造、歴史的な状況などを総合した考古学的な解釈です。
ここで興味深いのは、今城塚古墳が大和ではなく、淀川流域に築かれていることです。
継体大王は、近江や越前に関係する人物として記録されています。
即位後も河内や山背に長く拠点を置いたと伝えられています。
そして、その墓と考えられる古墳も、淀川流域に位置しています。
これらの事実や伝承を合わせると、継体大王の政治的な基盤が、大和だけに限られていなかった可能性が浮かび上がります。
もっとも、古墳が築かれた場所だけで、その人物の政治的な活動範囲を決めることはできません。
それでも、古墳の立地が当時の政治や交通の関係を考える手がかりになることは確かです。
8. 埴輪が語る大王の葬送|巨大な古墳を造った人々
今城塚古墳で特に注目されるのが、数多くの形象埴輪です。
発掘調査では、人物、動物、建物、武器などを表現した多様な埴輪が発見されました。
武人や巫女、力士、馬、鳥、家など、さまざまな形が確認されています。
その配置からは、大王の葬送に関係する儀礼や、当時の社会的な役割を考えることができます。
現在の今城塚古墳公園では、発掘調査の成果に基づき、200点以上の形象埴輪を並べた祭祀場が復元されています。
高槻市ホームページ(都市づくり推進課)
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これらの埴輪は、単なる墓の飾りだったのでしょうか。
あるいは、亡くなった大王の権威や、葬送に関わる人々の役割を表現していたのでしょうか。
形象埴輪の意味については、さまざまな研究が行われています。
埴輪の種類や配置には一定の意図があったと考えられますが、そのすべてを明らかにすることはできません。
それでも、これほど多くの埴輪が製作されたこと自体が、当時のものづくりを考えるうえで重要です。
埴輪を作るためには、大量の粘土が必要です。
粘土を採取し、形を整え、乾燥させ、焼き上げる。
大きな人物埴輪や家形埴輪では、製作中に形が崩れないようにする工夫も求められたでしょう。
さらに、完成した埴輪を古墳まで運び、決められた場所へ配置しなければなりません。
つまり、埴輪の製作には、材料の調達から成形、焼成、運搬、設置まで、多くの工程が存在していたはずです。
今城塚古墳の近くには、新池埴輪製作遺跡があります。
この遺跡では、埴輪を製作した工房や窯、工人の集落などが確認されています。
その製品は、今城塚古墳をはじめ、周辺の古墳にも供給されていたと考えられています。
これは、非常に興味深い事実です。
大きな古墳を築くために、必要な製品を作る生産の場が存在していたことになります。
埴輪を製作する人々がいて、それを運ぶ人々がいて、古墳の造成を進める人々がいた。
それぞれの仕事が組み合わされることで、初めて巨大な古墳は完成したのでしょう。
古墳は王の力を示す建造物として語られることが多くあります。
しかし、その実物を作り上げたのは、現場で働いた多くの人々です。
王権の規模を考えるとき、単に何人の人々を動員できたかだけではなく、材料を調達し、専門的な技術を集め、長期間にわたる作業を進める仕組みが存在したかどうかも重要になります。
巨大な古墳は、政治的な権威の象徴であると同時に、その時代の生産技術と組織的なものづくりの成果でもあるのです。