新田義貞の一族は、本当に滅びたのか。足利氏に従った血筋、戦国大名となった子孫、そして700年後に残された謎【2】
敗れた新田氏の子孫が、足利方の岩松氏へ入ったという謎
岩松氏の歴史をさらに調べると、興味深い人物が登場します。
新田満純です。
満純は、新田義貞の孫にあたる人物と伝えられています。
その満純が、岩松満国の養子になったというのです。
足利氏と結びついて新田荘を支配するようになった岩松氏。
その家に、足利氏と戦った義貞の孫が入る。
ここには、一見すると矛盾しているような関係があります。
しかし、中世の武家社会では、養子縁組は家と家を結びつける重要な方法でした。
家督を継ぐ人が必要な場合もあります。
所領や一族の関係を維持するために、別の家から養子を迎えることもあります。
また、婚姻や養子によって、対立していた家同士が新しい関係を築くこともありました。
そのため、政治的に異なる道を歩んだ家々が、後に再び結びつくこと自体は不思議ではありません。
ただし、満純の系譜や養子縁組の具体的な事情については、後世の系図も含めて検討する必要があります。
なぜ岩松氏は、義貞の血筋につながる人物を迎えたのでしょうか。
満純の側には、どのような事情があったのでしょうか。
そのとき、両家の人々は新田義貞と足利尊氏の対立を、どのように受け止めていたのでしょうか。
私たちには、その具体的な会話を知ることはできません。
しかし、両家の関係をたどると、一度敵味方に分かれた一族が、その後も固定された関係を続けるとは限らないことが見えてきます。
戦争の結果は、勝者と敗者を生みます。
しかし、その後を生きる人々は、勝敗だけでは決められない新しい関係を築いていくのです。
1469年、岩松氏は金山城を築いた
時代はさらに進みます。
1469年。
岩松家純は、上野国金山に城を築いたとされています。
現在の群馬県太田市に残る金山城です。
金山城は、山の地形を利用した大規模な山城でした。
山頂から延びる尾根を利用し、曲輪や堀切などの防御施設が設けられました。
後の時代には石垣や石敷きの通路、貯水施設なども整備され、現在までその遺構が残されています。
ただし、現在確認できる城の構造のすべてが、1469年の築城時から存在していたわけではありません。
長い年月の中で、城は増築され、改修されてきました。
その金山城を築いた岩松氏は、かつて新田義貞の本宗家が勢力を持っていた地域で、戦国時代につながる新しい支配の形を築こうとしていたのです。
しかし、ここでも歴史は一筋縄では進みません。
岩松氏の内部では、家督や政治的な立場をめぐって対立が生じました。
さらに、家臣の横瀬氏が勢力を強めていきます。
そして、やがて岩松氏は家臣の力を抑えきれなくなりました。
かつて新田本宗家に代わって新田荘の支配を強めた岩松氏が、今度は自分たちの家臣に実権を奪われていくのです。
ここには、中世から戦国時代にかけて繰り返された権力の変化が見えてきます。
ある時代の勝者が、そのまま次の時代の勝者になるとは限りません。
一つの家が力を得ても、その力を永久に保てるわけではないのです。
横瀬氏から由良氏へ。新田の土地を支配した人々
岩松氏の家臣として勢力を強めた横瀬氏は、後に由良氏を名乗るようになります。
由良氏は、金山城を拠点として戦国時代の東毛地域で活動しました。
その周囲には、上杉氏、後北条氏、武田氏など、関東と甲信越の有力勢力が存在しました。
小さな地域だけを見て政治を進められる時代ではありません。
周囲の大名たちの関係が変われば、自分たちの生き残る条件も変わります。
由良氏も、その変化する環境の中で活動しました。
一方、岩松氏は家としての実権を弱めながらも、その存在が完全に消えたわけではありませんでした。
後の時代には、岩松氏の系譜を受け継ぐ家が残されます。
そして、その家は江戸時代を経て、明治時代に新たな形で歴史の表舞台へ現れることになります。
ここで考えたいのは、政治的な権力を失うことと、一族そのものが消えてしまうことは違うということです。
城を失うことがあります。
領地を失うこともあります。
しかし、その家の人々が別の場所で暮らし、家の名前や歴史を伝え続ける場合もあります。
それは、新田義貞の時代から繰り返されてきたことでもありました。