須恵器を作った人たちはどこから来たのか
須恵器を見ると、単に「新しい焼き物が広がった」と考えたくなります。
でも、焼き物だけが勝手に移動することはありません。
窯を作る人。
土を選ぶ人。
ロクロを扱う人。
火を読む人。
失敗した理由を考え、次の焼成へつなげる人。
そこには、技術を持った人の移動が必要です。
国立歴史民俗博物館は、古墳時代の中頃、朝鮮半島から陶器を作る技術や製鉄技術を
持つ人びとが渡ってきたと説明しています。
また文化庁も、加耶などから来た人々との日常的な交流によって、須恵器の生産や
鉄加工などの新しい技術がもたらされたと紹介しています。
では、その人たちは「須恵器職人」という一種類の人たちだったのでしょうか。
私は、もう少し広い集団だった可能性を考えています。
窯を作るには土木の知識がいります。
大量に焼くには燃料がいります。
山から木を集める人も必要です。
完成品を運ぶ道や船も必要になります。
職人だけ移動しても、生産は続きません。
家族や仲間。
材料を探す人。
運ぶ人。
食料を支える人。
そうした人たちが一緒に動いた方が、現実の暮らしには合っています。
さらに重要なのは、移動してきた人たちだけですべてを作ったとは限らないことです。
土地には、もともと暮らしていた人がいます。
どこに良い土があるか。
どこに木があるか。
水はどこから取れるか。
どの道なら荷物を運べるか。
そうした地域の知識は、外から来た人より地元の人の方がよく知っています。
新しい焼成技術と、その土地で積み上げられてきた知識。
この二つが組み合わさって、初めて大きな生産地が成立したのではないでしょうか。
須恵器を作った人たちを「渡来人」と一言でまとめると、人の姿が見えにくくなります。
海を渡って来た技術者。
途中の土地で定住した人。
そこで生まれた次の世代。
土地の人と一緒に仕事を始めた人。
さらに別の地域へ技術を持って移動した人。
何世代もかけて枝分かれしながら、技術が広がったと考える方が自然です。
須恵器は、海の向こうから完成品として日本へ届いた文化ではありません。
人が移動し、土地の人と出会い、一緒に試しながら日本列島の各地へ
広げていった技術だったのではないでしょうか。