百舌鳥・古市古墳群の謎|なぜ巨大古墳の中心は、大和から河内へ移ったのか【後編】
大和の技術は、河内に受け継がれたのか
箸墓古墳が築かれたと考えられる3世紀から、大仙陵古墳が築かれたと考えられる5世紀までには、長い時間があります。
その間、前方後円墳の形や構造も変化していきました。
古墳の大きさだけではありません。
墳丘のつくり方。
埋葬施設。
副葬品。
埴輪の種類や配置。
こうしたものにも、時代による違いが見られます。
これは、古墳を築く文化が、最初から完成していたわけではないことを考えさせます。
人々が経験を積み、方法を変えながら、大規模な建設を続けていたのかもしれません。
ものづくりの技術は、同じ仕事を何度も繰り返す中で変化していくことがあります。
最初は難しかった仕事でも、二度、三度と経験することで、材料の扱い方や作業の順序が見えてきます。
新しい道具を取り入れれば、それまでできなかった仕事も可能になるでしょう。
そして、異なる技術を持つ人々が協力すれば、さらに大きな仕事ができるようになるかもしれません。
古墳の築造にも、そのような経験の積み重ねがあったのではないでしょうか。
もし大和で培われた建設技術が、河内に移り、そこでさらに発展していったとしたら。
巨大古墳の中心が変わったように見えることは、政治的な変化だけでなく、技術や人々の移動を反映している可能性もあります。
王の名前が変わっても、ものをつくる技術は、人から人へと受け継がれていく。
私は、古墳の変化を考えるとき、そのような歴史にも目を向けたいと思います。
巨大な墓を築くことは、本当に権力の証だったのか
古墳の大きさは、しばしば埋葬された人物の権力と結びつけて説明されます。
大きな墓を築くことができた人物ほど、多くの人々を動員できる強い権力を持っていたという考え方です。
確かに、巨大な古墳を築くためには、多くの人々を動かす仕組みが必要だったでしょう。
しかし、ここで一つ疑問があります。
多くの人々を動かすことができたのは、強い命令権があったからだけなのでしょうか。
例えば、異なる地域の有力者たちが、共通の目的を持って古墳の築造に参加していたとしたら。
巨大な墓を築くことは、単に一人の王の力を示すものではなく、地域間の関係を確かめる機会にもなったかもしれません。
また、古墳の完成には長い時間が必要だったと考えられます。
その間、多くの人々が作業を続けるには、食料や道具の供給も欠かせません。
それぞれの地域が、何らかの役割を分担していた可能性もあるでしょう。
もちろん、こうした協力が自発的なものだったとは限りません。
命令による労働や、力による支配が存在したことも考えられます。
ただ、巨大な古墳が存在することだけで、その社会の仕組みを一つに決めることはできないと思います。
私は、古墳の大きさだけではなく、その仕事をどのように実現したのかが気になります。
なぜ海に近い場所だったのか
百舌鳥・古市古墳群は、大阪湾や河内の水域と関係の深い大阪平野に位置しています。
ここで、古代の交通をもう一度考えてみたいと思います。
大和盆地は、山々に囲まれた内陸の土地です。
一方、河内から大阪湾へ出れば、瀬戸内海を通じて西日本の各地へ向かうことができます。
さらに、瀬戸内海から北部九州を経て、朝鮮半島との交流につながる航路もありました。
海上交通は、物資を運ぶだけではありません。
人々が移動します。
新しい知識が伝わります。
異なる土地の文化や技術が出会います。
そして、政治的な情報も行き来したでしょう。
もし古代の王権にとって、海を越えた交流がますます重要になっていたとしたら。
河内という土地の価値も変わっていったのではないでしょうか。
内陸の大和を中心とした社会から、海上交通をより重視する社会へ。
そのような変化が、巨大古墳の築かれる場所にも影響していた可能性があります。
ただし、古墳の立地だけから、政治の中心が海沿いへ移ったと判断することはできません。
それでも、河内が持つ交通上の条件は、当時の社会を考えるうえで見逃せないものだと思います。
河内の王と大和の王は、同じ系統だったのか
ここで、さらに大きな疑問が生まれます。
大和に巨大古墳を築いた人々と、河内に巨大古墳を築いた人々は、同じ王の系統だったのでしょうか。
それとも、別の勢力だったのでしょうか。
古代の王権については、王統の継続性を重視する考え方もあれば、時代によって有力な勢力が入れ替わった可能性を考える説もあります。
5世紀の王権をめぐっては、河内を基盤とする勢力が台頭したという見方もあります。
しかし、古墳の築造場所だけで、王の血筋や政治的な交代を判断することはできません。
『古事記』や『日本書紀』には歴代天皇の系譜が記されています。
ただし、それらは古墳が築かれた時代よりも後に編纂された文献です。
伝承を受け継いでいる一方で、編纂された時代の政治的な事情や考え方が反映されている可能性もあります。
一方、考古学では、古墳の形や副葬品、築造されたと考えられる年代などから、当時の社会を探っています。
しかし、古墳から王の名前が直接分かるとは限りません。
ここに、歴史を考える難しさがあります。
文献には名前がある。
古墳には形がある。
しかし、その二つが必ずしも一致するとは限らないのです。
私は、どちらか一方を正しいと決めるのではなく、それぞれに残された手がかりを見ながら考えてみたいと思います。
海外との交流が王権を変えたのか
5世紀頃の日本列島を考えるうえで、中国や朝鮮半島との交流は重要です。
中国の歴史書には、倭の五王と呼ばれる五人の倭王が登場します。
讃。
珍。
済。
興。
武。
これらの王は、中国南朝の宋に使者を送り、称号を求めたことなどが記録されています。
しかし、倭の五王が『日本書紀』に登場するどの天皇に当たるのかについては、さまざまな説があります。
ここで、私は一つの疑問を持ちます。
なぜ、海を越えて中国の王朝と関係を築く必要があったのでしょうか。
国内で強い権力を持つだけでは、十分ではなかったのでしょうか。
朝鮮半島をめぐる政治的な関係。
交易。
鉄などの物資の確保。
海外から伝わる技術。
そして、国際的な立場を示す必要性。
さまざまな理由が考えられます。
もし王権にとって海外との交流が重要になっていたとしたら、海への交通が便利な河内は、大きな意味を持つ土地になったかもしれません。
巨大古墳が河内に集中する時代と、倭の五王が中国へ使者を送った時代には、重なる部分があります。
それぞれを直接結びつけることはできません。
しかし、国内の政治的な変化と、海を越えた交流を一緒に考えることには意味があるのではないでしょうか。
河内には、以前からどのような人々がいたのか
第5回では、三輪山と大田田根子の伝承を取り上げました。
そこには、河内の陶邑から、大物主神を祀る人物が探し出されたという物語がありました。
また、それ以前の歴史探訪では、池上曽根遺跡や、饒速日命、物部氏の伝承についても考えてきました。
大阪南部から河内にかけての地域には、弥生時代から人々の暮らしがあり、農耕やものづくりの技術が受け継がれていました。
つまり、5世紀になって巨大古墳が築かれたからといって、突然その土地に社会が生まれたわけではありません。
そこには、以前から暮らしていた人々がいたはずです。
土地を耕す人。
水路を整える人。
道具をつくる人。
木材や石材を扱う人。
そして、地域の信仰や習慣を受け継ぐ人々。
新しい政治的な勢力が大きな力を持つようになったとしても、その社会を動かすためには、以前から存在していた人々の協力が必要だったのではないでしょうか。
ここで、私は第5回の大田田根子の物語を思い出します。
王が神を祀るために、古い系統につながる人物を必要としたという伝承です。
もし河内で巨大古墳を築く新しい勢力が現れたとしても、そこに暮らしていた人々の技術や知識、信仰を無視することは難しかったのではないでしょうか。
新しい王権が生まれることと、それ以前の社会が消えることは、同じではありません。
私は、河内の巨大古墳にも、そのような歴史の積み重ねがあったように感じます。
王の墓に残された、名前のない人々の仕事
現在、百舌鳥・古市古墳群は世界文化遺産に登録されています。
その規模や形、古代社会の姿を伝える文化遺産として、大切に保存されています。
しかし、私は巨大古墳を見るとき、そこに葬られたとされる王だけでなく、古墳をつくった人々のことを考えます。
誰が最初に土地を測ったのでしょう。
誰が墳丘の形を考えたのでしょう。
誰が土を運び、石を積み、埴輪を並べたのでしょうか。
どれほどの人々が働き、どのような経験を積み重ねていたのでしょう。
その人々の名前は、ほとんど残されていません。
しかし、彼らの仕事は、巨大な墳丘という形で今も残されています。
そして、その技術は、一度の仕事で終わったわけではないでしょう。
次の古墳へ。
さらに次の古墳へ。
経験が受け継がれ、方法が変化し、新しい技術が取り入れられていったのかもしれません。
古墳時代の歴史を、王の系譜だけで考えるのではなく、実際に社会を支えていた人々の仕事から見てみる。
そうすることで、これまでとは違う古代日本の姿が見えてくるように思います。
大和から河内へ、何が受け継がれたのか
最後に、もう一度、大和と河内の関係を考えてみたいと思います。
三輪山の麓に広がる纒向遺跡。
そこには、各地から人や物が集まっていました。
その近くには、箸墓古墳という巨大な墓が築かれました。
そして、時代が進むと、河内にさらに大きな古墳が築かれるようになります。
この変化を、単純に政治の中心が移動したと説明することもできるかもしれません。
しかし、私は、もう少し広い視点で考えてみたいと思います。
大和で発展した社会の仕組み。
巨大な建造物をつくる技術。
古い土地の信仰。
各地の人々との関係。
そして、海を越えて伝わってきた新しい知識や技術。
そうしたものが、長い時間をかけて組み合わされ、河内の巨大古墳を生み出す社会につながっていった可能性はないのでしょうか。
あるいは、河内には大和とは異なる勢力や技術の蓄積があり、それらが新しい時代を切り開いたのかもしれません。
私たちは、まだそのすべてを知っているわけではありません。
しかし、巨大な古墳が築かれる場所の変化は、古代日本の社会が同じ姿のまま続いていたわけではないことを考えさせます。
人々が移動する。
技術が伝わる。
新しい関係が生まれる。
そして、それまでの仕組みが少しずつ変わっていく。
王が変わったから社会が変わったのか。それとも、社会が変わったから、新しい王や新しい政治の仕組みが必要になったのか。
私は、この問いが気になります。
歴史書には王の名前が残されています。
しかし、その王を支えた人々の仕事や、社会の変化がすべて記録されているわけではありません。
百舌鳥・古市古墳群は、巨大な墓という形で、その時代の人々が成し遂げた仕事を今に伝えています。
そして、その背景には、大和から受け継がれたものと、河内で新しく生まれたものが、複雑に関係していたのかもしれません。
次回は、河内の巨大古墳が築かれた時代に、中国の歴史書に登場する倭の五王について考えてみたいと思います。
なぜ倭の王たちは、海を越えて中国の王朝に使者を送り、称号を求めたのでしょうか。
そこから、古代日本の王権が海外とどのような関係を築こうとしていたのかを探ってみたいと思います。