楠木一族と後南朝。南北朝合一の後も、なぜ戦い続ける人々がいたのか【4】
1457年、吉野の山中で起きたもう一つの悲劇
禁闕の変から14年後。
今度は、大和と紀伊の境に近い吉野の山中で、悲劇的な事件が起きます。
1457年の長禄の変です。
この事件では、旧南朝の皇族とされる兄弟が襲撃され、命を落としました。
襲撃したのは、赤松氏の再興を目指していた旧臣たちでした。
赤松氏は、かつて室町幕府の有力な守護大名でしたが、1441年の嘉吉の乱によって没落していました。
その旧臣たちは、奪われた神璽を取り戻すことが、家の再興につながると考えたのです。
ここには、非常に複雑な人間関係があります。
一方には、旧南朝の皇統を守ろうとする人々がいました。
もう一方には、失われた自分たちの家を再興しようとする人々がいました。
双方に、それぞれ守りたいものがあったのです。
しかし、その目的のために、相手の命を奪うという行動が選ばれました。
結果として、旧南朝の皇族とされる人々が殺害され、神璽をめぐる争いにも大きな転機が訪れます。
赤松氏の旧臣たちは、その後、神璽の回収に関わった功績によって、一族再興への道を開いていきました。
この出来事を、単純にどちらが正義だったのかという問題として見ることは難しいと思います。
家を再興したいという思いがあっても、そのために人を殺すことが正当化されるわけではありません。
一方、襲撃された人々が、どのような思いで山中に暮らし、何を望んでいたのかについても考える必要があります。
長い争いが続くと、人々は過去の出来事に強く縛られることがあります。
家族を失ったこと。
土地を奪われたこと。
約束を守ってもらえなかったこと。
その記憶が、次の世代へと受け継がれていく。
そして、ときには、その記憶が新しい争いを生み出してしまうこともあるのです。
楠木一族は、後南朝とどのように関わっていたのか
ここで、楠木一族の歴史に戻ってみたいと思います。
正成は、後醍醐天皇を支えて鎌倉幕府と戦いました。
正行は、父の死後も南朝を支え、四條畷で命を落としました。
正儀は長い争乱を生き抜き、和平の可能性を探りました。
そして、その後の世代にも、楠木氏の名前は残されています。
後南朝に関係する記録や伝承の中にも、楠木氏につながる人物が登場します。
しかし、ここで注意したいことがあります。
楠木正成の子孫を名乗る人物がいたとしても、そのすべてが正成から直接つながる血筋だったと確認できるわけではありません。
当時の記録が十分に残っていない人物もいます。
後世につくられた系図や伝承が含まれている場合もあります。
また、同じ楠木氏の一族であっても、全員が同じ政治的な立場を取り続けたとは限りません。
正儀自身が南朝と幕府の間で立場を変えたことを考えれば、一族の中にもさまざまな考え方があった可能性があります。
それでも、楠木という名前が、南北朝合一の後にも語り継がれていたことには意味があると思います。
楠木正成という人物は、単なる一人の武将ではなくなっていたのでしょう。
ある人々にとっては、後醍醐天皇を支えた忠義の象徴だったかもしれません。
別の人々にとっては、河内の土地を守るために戦った先祖だったかもしれません。
そして、その名前を受け継ぐことで、自分たちの立場や行動に意味を見いだそうとした人々もいたのではないでしょうか。
ただ、その名前が持つ意味と、実際に生きた正成自身の考えが、すべて一致していたとは限りません。
後世の人々は、それぞれの時代の中で、正成という人物を見つめ直してきたのです。