楠木一族と後南朝。南北朝合一の後も、なぜ戦い続ける人々がいたのか【3】
後亀山天皇は、なぜ再び吉野へ向かったのか
南北朝合一後、後亀山天皇は上皇として京都で生活しました。
しかし、旧南朝の人々が期待していた状況は、必ずしも実現していきませんでした。
1410年、後亀山上皇は京都を離れ、再び吉野へ向かいます。
合一から18年が過ぎていました。
なぜ、後亀山上皇は吉野へ戻ったのでしょうか。
皇位継承の問題。
旧南朝の皇族の処遇。
そして、自分たちの立場に対する幕府や朝廷の対応。
いくつもの事情があったと考えられています。
ただし、吉野へ戻ったことだけで、すぐに新しい朝廷を開いて武力で対抗しようとしたと決めつけることはできません。
後亀山上皇が何を求めていたのかについては、当時の政治状況や残された記録を慎重に見る必要があります。
それでも、一度は京都へ戻って合一を受け入れた人物が、再び吉野へ向かったことには、大きな意味があったのでしょう。
吉野は、単に山深い土地というだけではありませんでした。
後醍醐天皇が京都を離れ、南朝を開いた場所です。
長年にわたって南朝を支えた武士たちや、寺社に関わる人々の記憶が残る土地でもありました。
そこへ後亀山上皇が戻ったことは、旧南朝の人々にとって、何らかの希望や期待につながった可能性があります。
政治の中心が京都へ移っても、吉野に残された歴史が消えたわけではなかったのです。
なぜ吉野の山々が、人々を引きつけ続けたのか
奈良県の吉野は、古くから山岳信仰や修験道と深く関わってきた地域です。
険しい山々が連なり、谷には集落や寺院が点在しています。
現在の道路や交通網が整備される以前、このような土地を移動するには、山道を知る人々の助けが欠かせなかったでしょう。
どの道を通れば隣の谷
1443年、京都の宮中で起きた事件
南北朝合一から51年が過ぎた1443年。
京都で衝撃的な事件が起こります。
禁闕の変と呼ばれる事件です。
旧南朝の皇統を支持する勢力が宮中に侵入し、三種の神器のうち剣と神璽を奪ったのです。
事件には、旧南朝の皇族とされる人々や、それを支持する武士たちが関わっていました。
幕府側は反乱を鎮圧し、剣は取り戻しましたが、神璽は旧南朝側へ持ち去られました。
三種の神器は、皇位継承と深く結びついた存在です。
なぜ、半世紀も前に合一したはずの南朝を支持する人々が、ここまで大きな行動に出たのでしょうか。
皇位継承の約束が実現しなかったことへの不満だったのでしょうか。
あるいは、旧南朝の皇統を再び政治の中心へ戻そうとする考えがあったのでしょうか。
もちろん、事件に関わったすべての人々の目的が同じだったとは限りません。
皇族の立場から考える人。
自分の家や所領を守ろうとする武士。
政治的な権力を得ようとする人々。
さまざまな事情が重なっていた可能性があります。
ただ、一つ確かなのは、1392年の南北朝合一だけでは、対立の原因となった問題のすべてが解決したわけではなかったということです。
しかし、だからといって、禁闕の変で行われた武力行動を、そのまま正しいものと考えることもできません。
宮中への襲撃は、新たな対立と犠牲を生む行為でもありました。
大切なのは、なぜそこまで追いつめられたと考える人々が現れたのか、その背景を探ることではないでしょうか。