新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【4】
足利氏の内部で起きた、もう一つの対立
足利尊氏が新しい武家政権を築いた後も、争いがなくなったわけではありません。
室町幕府の内部では、尊氏と弟の足利直義の関係が悪化していきます。
直義は、兄の尊氏を支えながら、幕府の政治や裁判に大きな役割を果たしてきた人物でした。
しかし、尊氏の側近である高師直らとの対立が深まり、やがて足利氏の内部を巻き込む大きな争乱へ発展します。
観応の擾乱です。
この争いでは、かつて同じ側で戦っていた武士たちが、異なる陣営に分かれることになりました。
さらに南朝方も、この対立に関わっていきます。
足利氏を中心とする幕府が内部で対立すれば、それまで幕府に対抗していた人々にとって、新たな軍事的な機会が生まれます。
しかし、その機会を利用するためには、実際に軍勢を集め、各地の勢力と協力しなければなりません。
この複雑な情勢の中で、新田義興と義宗が再び歴史の表舞台に登場します。
父の死から十年以上が過ぎていました。
1352年、関東で再び新田の軍勢が動く
1352年。
新田義興と義宗は、関東で南朝方の軍事行動に参加しました。
武蔵野合戦と呼ばれる一連の戦いです。
当時の関東では、足利尊氏やその子・基氏を中心とする幕府方の勢力がありました。
しかし、観応の擾乱によって、足利氏の内部も複雑な状況に置かれていました。
南朝方は、この機会に関東で勢力を拡大しようとします。
新田義興や義宗は、宗良親王らと関係を持ちながら軍勢を率い、武蔵国周辺で戦いました。
人見原。
金井原。
小手指原。
高麗原。
現在の東京都や埼玉県にあたる地域には、この戦いに関わる地名が残されています。
かつて父の義貞が上野国から鎌倉へ進軍したように、今度は子どもたちが関東で軍勢を動かしました。
ただし、1333年の鎌倉攻略と1352年の武蔵野合戦では、政治状況も軍勢の構成も異なります。
父の戦いをそのまま繰り返したわけではありません。
義興と義宗は、自分たちの時代に起こった争乱の中で行動していたのです。
新田義興と義宗は、何を目指していたのか
義興と義宗が戦い続けた理由を、父の敵を討つためだったという一つの説明だけにまとめることはできません。
もちろん、父・義貞が足利方との戦いで命を落としたことは、新田一族の歴史に大きな影響を与えていたでしょう。
しかし、二人が行動した1352年には、義貞の死からすでに十四年が経過しています。
その間に、後醍醐天皇も亡くなりました。
脇屋義助も亡くなりました。
足利尊氏は幕府を築き、政治の状況も変化していました。
二人は、その変化した時代の中で判断を求められていたのです。
新田氏の立場を回復すること。
南朝方として活動すること。
関東に残る支持者たちとの関係を維持すること。
そうした目的が重なっていた可能性があります。
一方で、義興と義宗の本人たちが、何を最も重視していたのかを詳しく語る記録は限られています。
だからこそ、後世から一つの動機を与えてしまうことには注意が必要です。
父と同じ一族に生まれたからといって、息子たちが父とまったく同じ考え方を持っていたとは限りません。
義興と義宗にも、それぞれの経験があり、それぞれの判断があったはずです。