新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【5】
鎌倉を奪い返した新田一族
1352年の戦いでは、南朝方の軍勢が一時的に鎌倉を占領しました。
これは、新田一族の歴史を考える上でも重要な出来事です。
1333年、父の義貞は鎌倉幕府を滅ぼしました。
そして約十九年後、義貞の息子たちが関わる軍勢が再び鎌倉へ進出したのです。
しかし、鎌倉を占領することと、その地域を長く支配することは別の問題でした。
足利方も反撃を開始します。
尊氏は軍勢を立て直し、各地で南朝方との戦いを続けました。
最終的に新田方は鎌倉を維持することができず、関東での戦況は再び足利方に有利となっていきます。
ここで注目したいのは、鎌倉という場所が持っていた意味です。
鎌倉は、かつて源頼朝が武家政権の本拠地とした場所でした。
鎌倉幕府が滅びた後も、関東の政治や軍事にとって重要な都市であり続けました。
その鎌倉を誰が押さえるかは、単なる土地の争奪以上の意味を持っていたのです。
新田一族が鎌倉へ進出したことは、足利氏に対して、なお関東で軍事的に対抗できる勢力が存在していたことを示しました。
しかし、その成功は長く続きませんでした。
そして数年後、義興はさらに不可解な事件に巻き込まれることになります。
多摩川の渡し場で、新田義興に何が起こったのか
1358年10月10日。
武蔵国矢口の渡し。
現在の東京都大田区周辺を流れる多摩川に関わる場所で、新田義興が命を落としたと伝えられています。
義興は、父・義貞の死後も関東で活動を続けていた武将です。
武蔵野合戦にも参加し、足利方に対抗してきました。
しかし、この日、義興は大軍との正面からの戦いではなく、渡し舟に関わる事件によって命を落としたとされています。
『太平記』には、義興が味方だと信じた人物の計略によって誘い出され、渡し場で命を落とす様子が描かれています。
その計画に関わった人物として、竹沢右京亮や江戸遠江守らの名が伝えられています。
ここで、父・義貞の最期を思い出します。
義貞は、少人数で藤島へ向かう途中、足利方の軍勢と遭遇して命を落としました。
息子の義興も、少人数で移動する途中に命を落としたと伝えられています。
しかし、二つの出来事を同じものとして考えることはできません。
藤島では、軍勢同士の遭遇戦として記録されています。
一方、矢口の渡しでは、事前に計画された謀略があったと軍記は語っています。
その違いを確かめることが、この事件の謎を考える重要な出発点になります。
船底に仕掛けられたもの
『太平記』などに伝えられる矢口の渡しの事件には、非常に印象的な場面があります。
義興たちが渡し舟に乗り、多摩川を渡ろうとしたときのことです。
船が川の中ほどへ進むと、船頭たちが舟を離れ、あらかじめ仕掛けられていた細工によって舟が沈み始めたとされています。
逃げ場を失った義興たちは、対岸からの攻撃も受けたと伝えられています。
この物語が事実に基づくのであれば、義興は戦場で偶然敵と遭遇したのではなく、移動する場所と手段を利用した計画的な攻撃に巻き込まれたことになります。
しかし、ここには確認しなければならない問題があります。
実際に船底へどのような細工が施されていたのでしょうか。
舟には何人が乗っていたのでしょうか。
船頭は、どの時点で舟を離れたのでしょうか。
その場にいた義興たちが、どのように行動したのか。
軍記物語は事件の経過を詳しく伝えていますが、その描写をすべて独立した同時代記録で確認できるわけではありません。
後世に語り継がれる間に、場面が印象的に描かれていった可能性も考える必要があります。
ただし、物語として伝わったからといって、事件そのものが存在しなかったと決めつけることもできません。
どの部分まで史実として考えられるのか。
どの部分から後世の伝承が重なっているのか。
そこに、矢口の渡しの大きな謎があります。