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新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【6】

2015.07.13

現在の多摩川と、当時の多摩川は同じではない

矢口の渡しを考える上で、もう一つ重要なのが多摩川の地形です。

現在の多摩川は、堤防に囲まれ、河川敷が整備されています。

橋を利用すれば、川を渡ることも難しくありません。

しかし、14世紀の多摩川は、現在と同じ流路ではありませんでした。

川は長い年月の中で流れを変えます。

大きな洪水によって河道が移動することもあります。

人々が堤防を築き、河川を改修することで、地形が変わることもあります。

大田区周辺でも、かつての多摩川は現在より東側へ大きく蛇行していたと考えられています。

そのため、現在の川岸に立って、ここが1358年の義興が舟に乗った場所だと簡単に断定することはできません。

渡し場の位置も、川の流れに応じて変化してきました。

実際に、現在伝えられる矢口の渡しの場所と、義興の時代に利用されていたと考えられる場所には違いがあります。

この問題は、現地を訪れるときにも大切です。

史跡の所在地を知るだけでなく、当時の地形が現在と異なる可能性を考える必要があります。

川の流れが違えば、舟の進路も変わります。

対岸の位置も変わります。

敵が潜むことのできる場所も変わります。

軍記の場面を地形と照らし合わせるには、当時の河道についてさらに調べなければなりません。

新田神社に残る、義興のもう一つの歴史

現在、東京都大田区矢口には新田神社があります。

新田義興を祀る神社です。

義興が矢口の渡しで命を落とした後、その霊を鎮めるために祀られたと伝えられています。

ここで興味深いのは、義興の死後、その人物が単に敗れた武将として記憶されたわけではないことです。

地域の人々は、義興を神として祀り、その出来事を語り継いできました。

さらに、義興とともに命を落とした家臣たちについても、周辺に伝承が残されています。

十寄神社。

妙蓮塚。

頓兵衛地蔵。

それぞれの場所には、矢口の渡しの事件に関わったとされる人々の物語があります。

ただし、これらの史跡がすべて1358年当時の状態で残っているわけではありません。

神社や塚は、長い年月の中で整備され、伝承が加わり、地域の人々によって守られてきました。

そのため、現在の姿だけで事件の細部を証明することはできません。

しかし、義興の死が長い年月にわたって人々の記憶に残り、信仰や地域の文化に影響を与えたことは重要です。

歴史上の人物は、死んだ後も、その人物を覚えている人々の中で新たな意味を持つことがあります。

義興は、まさにそのような人物でした。

なぜ、義興だけが特別な伝承を残したのか

新田義貞の子どもたちの中でも、義興は特に多くの伝承を残しています。

その一つの理由として、矢口の渡しでの最期が、人々に強い印象を与えたことが考えられます。

大軍との戦いで敗れたのではなく、味方だと信じた人物の計略によって命を落としたと伝えられる。

しかも、その舞台は多摩川の渡し場でした。

日常的に人々が行き交う場所です。

川を渡るという、普段の生活でも行われる行動の中で起こったとされる事件だったのです。

そのような出来事は、人々の記憶に残りやすかったのかもしれません。

さらに、義興の死後には怨霊に関する伝承も生まれました。

義興を死に追いやった人物たちが、その後不幸に見舞われたという話も伝えられています。

しかし、こうした怨霊伝承を、そのまま歴史的な出来事の証拠として扱うことはできません。

一方で、なぜ人々がそのような物語を語り継いだのかを考えることには意味があります。

武将の死を、ただの敗北として終わらせたくなかったのかもしれません。

理不尽な最期を迎えた人物を、忘れずに祀ろうとしたのかもしれません。

そこにどのような思いがあったのかは、一つには決められません。

ただ、義興の物語が戦いの記録から信仰や芸能へと広がっていったことは、歴史のもう一つの姿を示しています。

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