新田義貞の死後、戦い続けた一族。弟・脇屋義助と二人の息子に残された歴史の謎【7】
父・義貞と息子・義興。二つの最期に残る共通点
新田義貞は1338年、藤島で戦死しました。
新田義興は1358年、矢口の渡しで命を落としました。
その間には二十年という時間があります。
父と息子は、異なる時代の状況の中で行動していました。
しかし、二人の最期には、興味深い共通点があります。
どちらも、大軍を率いた正面からの決戦で命を落としたわけではないことです。
義貞は少人数で移動する途中に敵軍と遭遇しました。
義興は少人数で川を渡ろうとする途中に命を落としたと伝えられています。
そのため、二人の死を重ね合わせると、何か共通の理由があったのではないかと考えたくなります。
新田一族の動きは、足利方にとってそれほど警戒すべきものだったのでしょうか。
正面からの戦いではなく、少人数になったところを狙う必要があったのでしょうか。
しかし、そのような結論を出すには注意が必要です。
藤島での義貞の死と、矢口での義興の死について、同じ計画や共通の作戦があったことを示す記録はありません。
二つの事件には、それぞれ異なる事情があります。
共通点があるからといって、原因まで同じだったとは限りません。
ただ、父も息子も、長い戦いの中で軍勢を率いながら、最終的には小規模な移動の途中で命を落としたという点は、歴史を考える上で見逃せない特徴です。
足利尊氏が亡くなっても、戦いは続いていた
1358年4月、足利尊氏が亡くなりました。
義興が矢口の渡しで命を落としたとされる年です。
新田義貞と足利尊氏が敵対するようになってから、二十年以上が過ぎていました。
その間に、義貞は亡くなり、脇屋義助も亡くなりました。
後醍醐天皇も亡くなっています。
足利直義も、すでにこの世を去っていました。
南北朝の争乱が始まったころの中心人物が、次々と歴史の舞台から姿を消していたのです。
それでも戦いは終わりませんでした。
人々の対立は、最初に争いを始めた人物が亡くなれば、必ず解消するというものではありません。
その人物を支えていた家臣や一族がいます。
領地をめぐる問題が残ります。
長年の戦いによって生まれた新しい関係もあります。
そして、新しい世代が、それぞれの立場から判断して行動します。
新田義興の戦いは、父・義貞と尊氏の個人的な対立を、そのまま繰り返しただけのものではありません。
尊氏の死後も続く政治的・軍事的な問題の中で、義興自身が行動していたのです。
新田義宗は、その後どこへ行ったのか
義興が矢口の渡しで命を落とした後も、新田一族の歴史は終わりません。
義貞の子である義宗は、その後も関東の歴史に名前を残しています。
しかし、義宗の後半生については、分からない部分も少なくありません。
1352年の武蔵野合戦では、義興とともに南朝方の軍事活動に関わりました。
しかし、その後の活動については、史料や系譜、地域の伝承を慎重に照らし合わせる必要があります。
義宗がどこで活動し、いつ亡くなったのかについても、伝承によって違いがあります。
ここで、後世に成立した系譜の難しさが見えてきます。
武家の一族は、長い年月の中で分かれ、別の土地へ移り住むことがあります。
その過程で、祖先の名前や系譜が語り継がれます。
しかし、後世の系譜に書かれた内容が、すべて同時代の記録によって確認できるとは限りません。
新田義宗についても、史料で確認できる活動と、後世に伝えられた物語を分けて考える必要があります。
義宗という人物のその後を追うことは、新田氏が各地に残した歴史を調べることにもつながります。